第一章 群狼の末路


 郊外の廃墟。闇のいたるところから、肉を咀嚼する音が聴こえる。
 人工の灯りに頼り切り、夜のない世界に生きる人族にとって、廃墟を占める濃密な闇は
奈落に等しい無明である。
 だが……未だ色濃く野生を残す『彼ら』の双眸は、暗視装置さながらの性能を持ってい
る。昼間と変わらぬ明晰さで、廃墟のすみずみまでをも見渡すことが出来た。


 灰色の体毛に覆われた強靭な体躯。鋭く伸びた犬歯と、ぎらりと光る紅い瞳。
 狼の顔を持ちながら、地に二本の足をつけて宵闇を闊歩する狩猟種族。
 そう、彼らは『人狼』であった。


 新鮮な生肉を噛み千切り、鮮血を床へと滴らせ、彼らは食餌を摂っている。
 ある一頭が咥えているものは人間の腕……それも、衣服の切れ端から判ずるならば学生、
年若き少年の腕に相違なかった。
 またある一頭が喉を鳴らして飲み込んだものは、人の生き血である。無残に両断された
腿の断面から流れ落ちる紅血は、人狼にとって極上の美酒に代わるもの。
 その杯たる人間の末路は語るに及ばず、また筆舌に尽くせる類のものでもあるまい。


 人狼たちが興ずるこの宴を酸鼻と厭うのなら、それは人の論理である。
 人の食卓とて、知性を持つ鳥や豚が見咎めれば、五十歩百歩のおぞましさと映るに違い
ないのだから。
 むしろ自然の掟に従って、必要に十分なだけの獲物を狩る彼らの方が、幾分高潔さで人
を上回っているかもしれない。



 廃墟の入り口、錆びた大扉が軋んだ摩擦音を掻き鳴らして開いた。
 いみじくも同時に月を隠していた雲が晴れ、差し込む光が暗闇を駆逐していく……
 果たして月明かりに照らされた者どもは、人族の二人連れであった。


 かたや長身の和装という、現代の世においてはあまりにも異端な出で立ちの男。
 豊かな黒髪を一房に縛り、腰には長刀を提げている。古の侍そのものの趣だった。


 かたや痩身に黒衣を纏い、幽鬼と見紛うほどに異様な雰囲気を放つ男。
 頬は痩け、眼窩は落ち窪み、無精髭が下顎を覆う。
 蛇の如くにうねる黒髪と相俟って、邪神じみた凶相を呈している。


 奇態な闖入者を受けて、人狼たちは色めき立った。彼らの食欲を満たすにはいま少しば
かり、生贄の数が足りぬところだったのだ。
 群狼たちの頭目、顔面を斜めに裂く爪痕を持つ隻眼の人狼は、長い舌でべろりと垂涎を
舐め取ると、月夜に向かって高く吼える。
「オォォォォォォ――――――――ン」
 頭目の遠吠えは、狩りの合図。
 雑多な物陰、窓の縁、階段の欄干、あらゆる場所から人狼たちが飛び出した。
 その数、実に二十を数える。野生の狼そのものの俊敏さで、彼らは獲物を取り囲む。
 一を数え終わる暇すらなく、哀れな人族は群狼が築く包囲網の只中にあった。
「ああ」
 凶相の男が口を開く。地の底から響いてくるような、低く深みのある声。
「――お尋ねするが。君らはこの一週間で、何人喰った」
 絶体絶命の状況で口にするには、あまりにも不自然極まりない台詞だった。
 この窮地に至って、早々に観念したのか……それとも気が触れているのか。
 どちらにしろ、食物の戯言に耳を貸す道理はない。人狼たちは身の毛もよだつ唸り声を
上げながら包囲網を狭めていく。
 今にも襲い掛からんと、前衛の何頭かが身を屈ませた。
「待て」
 隻眼の頭目が飛び掛ろうとした手下どもを戒める。喉が潰れているような濁声。
 死に物狂いで逃げ惑う獲物を駆り立てるのが、狩猟の醍醐味である。なのに、二十頭か
らなる群狼に取り囲まれてなお、この異様な闖入者たちは泰然と落ち着き払っている。
 甚だ面白くない状況だったが、そも、彼らは自ずから人狼の巣窟へと足を踏み入れたの
だ。脆弱な人間だとて、見た目通りの相手と決め付けるのはいかにもまずい。
 刀一本とはいえ、抗う武器を持っているのならばなおさらだ。


 彼は、群れを纏める首領として持っていて当然の警戒心を発揮し、ひとまず獲物へと問
いかけた。
「面白いことを言うもんだ……俺らがいちいち獲物を数えながら喰っているとでも思うの
かい? なァ、食いでのなさそうな人間サマよォ」
 獲物を嘲弄するように、下卑た口調で頭目は言う。
「無論。人狼は人間などと違い、一日に摂取する栄養をよく管理している。必要最低源の
獲物だけを狩り、それ以上はまず殺さない。それが自然の掟であり、人狼の掟でもあるか
らだ。群れには食物を管理する役職があり、狩った獲物や喰った食料を逐一数え、記録し
ている。……そうだろう、人狼の長よ」
 黒い男は淀みなく答える。
 隻眼の頭目はこの答えを面白く思ったようで、カハッと乾いた哄笑を漏らした。
「カカッ、いかにも。よく知ってるじゃねェか。じゃあ何か、あんたァそれを聞くために
わざわざ俺らの棲家にいらっしゃった、てェわけかい」
 頭目は依然肩を震わせて嘲笑を漏らし続けている。
 何ともご苦労なことだと思った。そんなことをこの状況で知ったところで、自分が喰わ
れてしまったのでは何の意味もあるまいに。
 警戒が薄いと蔑んではいたが、『この世界』の人間がこうまで愚かだとは思わなかった。
「私の名は獅条恭二(しじょう きょうじ)という。そしてこれは弟の漱四(そうし)
 ここ数日、行方不明者が相次いでいてな……それを調べるのが、私の仕事だ。ご協力頂
ければ非常に助かるのだが」
 ついに堪え切れなくなった。間違いない、こいつあ気が狂ってやがる。そう確信した頭
 目は汚らわしい濁声で、高笑いを廃墟全体に響き渡らせた。
「カハハハハッ! あァ、あァ、いいともよ。教えてやるさ。確かァ男が十、女が十三…
…だったと思うぜ?」
「ほう……数が合わないな。その数字は正確か? 君の配下たちが、つまみ食いをしたの
では?」
 人狼たちは人間を単なる食料としか捉えていない。
 だが、同じ人間であるはずのこの男は、どうやら人狼たちと同じ感覚を共有して言葉を
紡いでいるようだった。それが異文化と円滑に会話を進めるための定石であるとはいえ、
尋常で出来ることではあるまい。よほどトチ狂っているのだと頭目は判断した。
「ハン、ありえねェな。そんな馬鹿な真似がばれりゃあ、自分が餌になって帳尻を合わ
せるのが俺らの掟だ」
 言葉を受け、恭二と名乗った黒衣は物憂げに視線を眇める。
「では別件か。あまり……君らに拘わっている場合ではないようだ」
「つれないことを言うなよ。せっかく来たんだ、まぁゆっくりしていきな。
 ……あァ、そういやあ、数え忘れてたぜ」
 ヒュゥ、と口笛を鳴らす。
「新しい喰いモンがここにもう二人――いたっけなァ!」
 合図によって戒めを解かれた飢狼の群れが、愚かしい人間どもへ一斉に踊りかかる。



 殺戮が始まった。



 黙したまま微動だにせぬ和装を無視して、包囲網の前衛部隊がまず狙ったのは、黒衣の
痩身である。肉が痛んでも惜しくない、いかにも不味そうな獲物を嬲り殺しにし、狩猟の
高揚感を得ようという嗜虐的な理由が一つ。
 武器を持った和装の動きを見定め、黒衣を助けに向かった場合は後衛がその隙を狙い仕
留め、逃げるようなら追走しようという戦略的な理由が一つ。
 一つの意思に完全統率された一糸乱れぬ狩猟陣形。
 群れで生きる人狼たちが誇る、必殺無謬の連携攻撃――。


 先制攻撃を務める人狼の鉤爪が月光を浴びて禍々しく光る。
 奔った貫手はあやまたず黒い男の胸板を捉え、一撃の下に串刺しにした。



 ……それが、怪異の始まりだった。



 痩躯の中心を貫かれ、確実に致命傷を負ったはずの男は怨霊じみた沈鬱な面持ちで、
(イン)」と、呪うような声で呟いた。
 その瞬間、信じ難いことが起こった。
 男の全身がコールタールのようにどす黒い液体に転じて、周囲に飛び散ったのである。
「グギアャァァァァッ!」
 絶叫を上げたのは貫手を放った人狼だ。胸板を貫いたと見えた腕はその実、先の『黒い
何か』に飲み込まれ、跡形もなく消失していたのだ。片腕を喪った人狼はアスファルトの
上を転げ回り、未だ腕の断面を焼く苦痛に喘いでいる。
 百戦錬磨の精鋭たる人狼たちもこれにはさすがに瞠目し、揃って身を固くした。


 理解の埒外にある出来事に気を取られた一瞬が、彼らの命運を尽きさせる。
 頭目が正気を取り戻したときにはすでに、五頭の仲間の首が宙を舞っていた。
 音もなく刀を抜き払った和装の剣士が、太い筋肉に守られた人狼の首を五頭まとめて斬り
飛ばしたのである。
 一体……いかなる神技を用いれば、このような芸当が可能だというのか。
 悪夢そのものの光景に、隻眼の人狼は驚愕と戦慄を禁じ得なかった。


 だが、元いた世界においては『狼山の隻眼王』とまで呼ばれた彼である。眼前で起こっ
た怪奇の種を、多少なりとも理解し始めていた。


 あの和装については言うまでもない。単純に恐ろしいほどの技量を持った剣士と判ぜられ
る。ならば数に物を言わせ、四方から同時にかかれば倒せないほどの脅威ではない。
 問題は黒衣の方だ……。
 あれは恐らく……『妖術』の類。
 人の眼を欺き、心を惑わせ死に誘う……一部の妖魔だけが所有する魔性の秘術。
 だがそれを、何故たかが人間如きが行使する?
 このような不条理は、彼の常識ではありえない事態だった。
 人は妖魔に喰われるだけの、ただそれだけの脆弱極まりない獲物ではないのか?
 少なくとも数多の妖魔が跋扈する『彼の世界』ではそうだった。
 数を揃えて、武器を持って、策を弄してようやく我等と相対できる小賢しい一種族。
 その劣等種族が『この世界』では栄華の頂点にいると知って、信じられぬ思いだった。
 どうして『こちら』の妖魔どもは、たかが人間に繁栄を許し、山や森に隠れ潜んでいる
のかと訝るばかりだった。
 その答えが……これか。
 人狼を容易く斬り伏せ、暗黒の妖術を用いる人間……そんなモノはありえない。
 ありえる可能性は、ただ一つだけ。
 ここに至って、高等妖魔たる人狼の長はようやく悟った。


 こいつらは、人間などではない(、、、、、、、、)――と。


 頭目の判断は迅速だった。

「退け……退けェッ!」

 狼たちは妖魔の中でも最速に類する脚力で、弾けるように散開する。
 その速さのみならず、複数の獣たちが幻惑するように絡み合い、巧みに軌道を変化させ
ながら退いてゆく様は、いっそ演舞のように美しくさえあった。
 恐慌の最中にありながら、群狼のコンビネーションは未だ軽捷の冴えを見せる。


 死地から遁走を遂げるには、それでもなお遅すぎた。
 ここはすでに人狼の棲家に非ず、人外の闇遣いが奉ずる生贄の祭壇と化している。


 走れども、走れども……一向に出口にたどり着かない。
 僅か数百メートルの距離だというのに、無限の迷宮を往くように、果てしなく廃墟は続
いていた。
 やがて走り疲れた彼らは……己が数十分前と変わらぬ位置に立ち尽くしていることに気
付き、唖然と下顎を落とした。
 あの、人の皮を被った化生に幻術を掛けられていたに違いない。
 最早この処刑場からは、逃走すらも許されないのか。


 ふと周囲を見れば月は再び雲に飲まれて、廃墟に闇の帳が下りている。
 無明の闇は、他でもない人狼が最も得意とする状況の一つである。勝機を見出した彼ら
は萎えた戦意を鼓舞するべく、威嚇の唸りを上げ始めた。


 人狼の眼球は暗視装置と同じように、僅かな光源を増幅し、暗闇での視界を確保するも
のである。当然の結論として、一定濃度を越える闇の中では人狼たちのみが視力を有し、
敵だけが盲目となる。
 圧倒的なアドヴァンテージ。
 辺りに落ちた濃厚な闇。これだけ暗ければどんな生物も盲いずにはいられまい。
 夜を輩とする、闇の眷属だけを例外として。
 気取られぬよう押し黙り、足音を殺し、眼球だけを光らせて、人狼たちは索敵する。
 だがこの闇には、例外というものが存在しなかった。
 人狼の超視力をもってして、一厘の光明すら感じ取れない真の闇。
 彼らは忘れていた。この敵が自分たちの遙か上をいく――暗黒の使徒であることを。
 世界が闇に包まれたのは偶然ではなく、妖術師の邪悪な意思によるものだったのだ。
 今度こそ彼らは、絶望の淵に沈みこむこととなった。


「グアァァァァァッ!」
 深淵のいずこからか、仲間の断末魔が聴こえてくる。鋭く乾いた斬撃の音色が、また一
つ穢れた命を断ち斬っていく。
 視力を奪われているといえど、敵とて条件は同じ筈。
 どうしてこうも正確に、息を潜める人狼たちを次々に斬り捨てていくことができるのか。
 まさか視力に頼らずに、闇の中を自在に見て取れるとでもいうのだろうか。
『心眼』という、鍛練の果てにたどり着く武の境地のことなど、生まれながらの超視力に
頼りきっていた彼らには、想像することすら出来なかった。


 王の尊厳をかなぐり捨てて、隻眼の頭目は逃げ惑う。
 どうしてこんなことになった?
 何故、我らはこのような異郷で果てなければならない?
 疑問は怨嗟となって、彼の心を支配していた。
 隻眼の王に統べられる狼山の人狼たちは、自ら望んで『この世界』にやって来たわけで
はない。
 いつものように人里を襲い、血の宴を愉しんだ後……慣れた森を通過した折に、その怪
異は起こった。
 狼山へ通ずる筈の森が、突然見ず知らずの場所へと開けたのだ。
 深き森を彷徨うものは己が意思とは無関係に、今いる世界とは異なる別世界へと導かれ
ることがあるという――


 幼い頃、山の老翁が語った昔語りを思い出した。
 にわかには信じ難かったが、この地で三日を過ごす頃には、信じるしかなくなっていた。
 元いた場所に、帰る方法がないということも。
 だから――人狼たちは生きるために、自然の掟に則って狩りをしていただけなのに。


「そう……君らは何も悪くない」
 闇の中から、妖術師の声が響いてきた。
「君らは生きるために当然の行動を取ったまで。弱肉強食の世において、弱き者を喰らう
のは至極当然の理だ。よく分かるとも。望んで来たわけでなし……わけも分からず滅びる
は、なるほど道理の合わぬ話かもしれん。
 だが、君らに人狼の掟があるように、この世界にはこの世界の規律がある。
 人を殺した妖怪は、速やかに始末される。まさか知らなかったとは言うまい? 君らが
迷い込んだ当日に、妖鳥の伝令が告げた筈だな……」
「ふざけんなッ!」
 怨嗟を叩きつけるように、頭目は闇へ向かって怒声を浴びせた。
「あの鳥野郎がのたまったのはそれだけじゃねェだろうが!新参は山に入るな、海に近
づくな、森に立ち入るな? それでいて人間に干渉するなだと!? 舐めるのも大概にし
やがれ!
 じゃあ俺たちに何を喰えと? 二十頭からなる群れを維持するだけの食料を、どこから
調達しろと?」
「――言い訳をするな、人狼。山や森に迎え入れられたとして、貴様らは大人しく人を喰
わずにいられたとでもいうのか?」
 冷たく、突き放すような声だった。
「馬鹿を言うんじゃねぇ。そこらをうじゃうじゃ喰いモンが歩いてやがるんだ。喰うなと
言われて、はいそうですかなんて言える訳がねェだろうが!」
 捨て鉢な台詞だったが、それが人狼たちの総意であった。
 人間は妖魔に喰われるのが当然なのであり、何故自分たちが我慢しなければならないの
か……。断じて納得できなかった。それが今まで、彼らの常識であったのだから。


「では、この地に足を踏み入れた時点で……君らの命運は尽きていたということだ。
仮にこの地が、かつての大和のように広大であったなら……。そして君らに、地の支配
種族を見分ける理性が備わっていたのなら……こうして私と出遭うこともなかったろう
に」
 どちら一つとって見ても、ありえない可能性だった。
「私はその、堕胎された可能性を悼もう。この世界はあまりに狭く、人にあらざる客人に
割く席は一つもない。だから君らは理不尽に死ね。せめて自然の理に従って、弱肉強食の
中で捕食されるがいい……」


 うぞり、と前方の闇が蠢いた。
 何か……重い生き物が這いずるような音が聴こえてくる。
 ずるり、ずるり、と。
 前方からだけではない。
 左からも、右からも、後方からでさえ……その音は不気味に響いてくる。
 ぱらぱらと頭上から落ちてくるものは、廃墟を構成するコンクリートの破片、だろうか。
 人狼たちが野生の勘によって頭上を振り仰いだのは、むしろ逆効果だったろう。
 結果的にそれが、彼らの魂を完全に凍り付かせてしまったのだから。


 隻眼の人狼が見たものは、深淵の闇に浮かび上がる一対の紅眼だった。
 とてつもなく巨大な何かが、遥か高みより眼下を睥睨していた。
 大蛇、である。
 人狼の眼球が闇を見通せなかったのも、なるほど尤もなことであった。
 いつの間にか彼らは、吹き抜け三階建ての廃墟を狭苦しく感じるほどに長大な黒蛇の、
蜷局の中に取り込まれていたのだ。


 凍結した魂は、悲鳴を上げることさえ許されない。
 正しく蛇に睨まれた蛙の如くに、狼の群れは恐怖に飲まれて静止している。
 総身を竦ませ呻きながら、群れの誰もが逃れようのない死を理解していた。
 剣鬼の刃に斃れるか、闇の大蛇に飲まれるか……。
 最後の選択肢は、夜摩の文帖に記される文面を、僅かに変えるだけのものでしかなかった。