犬神操は回想する。
 ある理由から、珍しく路面電車で登校することにした彼女は、車内で一人の女生徒を眺
めていた。この時はまだ知らなかったが、深雲陽香と名乗ったあの女である。
 吊革に手を添えて、陽香はじっと外を見て静止していた。
 まるで日本人形のような女だと思った。
 触れることさえおこがましく思える白梅の花びらにも似た美しい肌。
 息を呑むような美貌なのに、どうしても造り物めいた印象が拭い去れない。
 白皙にかかる射干玉(ぬばたま)の髪は、それでもにおい立つ色気を醸していた。
 ――美味そうだ、と操は素直にそう思った。彼女の身体に混じる妖怪の血は、彼女を最
上の食物として認識している。
 やがて電車は学校最寄の停留所から一つ手前、黄泉平坂に差し掛かる。
 その時、人形に命が吹き込まれた。少なくとも操にはそう見えた。二重瞼の瞳を大きく
見開いて、陽香は何かを凝視していたのである。
 蕾が花開くように、明るく魅力的な微笑を浮かべた陽香。
 彼女と同じ方向を確認してみたが、何の変哲もない坂道と登校する学生たちがまばらに
見えるだけだというのに。
 校舎まではまだ少し距離があるのに、陽香は迷わず停留所で下車した。
 仕方ないので操も後を追う。気取られないよう気配を消し、少し距離を置いた上でだ。
 その後は……語る必要もないだろう。


 回想を終えて、操は眼帯の上から痛む左目を押さえつける。この痛みは今朝から――正
確に言えば昨夜の深夜から病み始めたものだった。
 家の侍医に見せたところ何の異状もないという。未だ知られぬ眼病なのかも知れないが、
どんな病であれ、そうそう負ける我が身ではない。
 片目が腐れ落ちるなら、それもまた自然の理。出来ることはするが、必要以上に懸念す
る意味はない。あとは呪術の類を確認するくらいである。
 だが解せない。
 あの男を見た瞬間、まるで反応するように目が痛み出したのは偶然だろうか……?
 金輪際関わり合いになりたくないと言った言葉は嘘ではない。
 あの二人に関わってはいけないと、本能がざわめいている。
 何か、酷く嫌な予感がするのだ。自分が自分でなくなってしまうような、強い焦燥感。
 だけど、そういうわけにはいかないのだろう。
 操は虚空を強く睨み、唇を噛み締める。
 くぅん、と儚い鳴き声がした。操が抱いている子犬の声だ。
 胸元に視線を落とし、破顔する操。
「すまん。怖がらせてしまった」
 舌で舐めて、毛並みを整えてやる。登校中、家の傍で拾った子犬だった。
 野生の犬なら捨て置くのだが、今回ばかりは状況が状況だったから。
 子犬は、無残に殺された母犬の脇で途方に暮れていたのである。無類の犬好きたる操に
は放置しておくことなど無理な話だった。
 哀しげに鳴く子犬は、母の死を悼んでいるのだろうか。
 下手人探しは一時中断。今は疾く帰り、こいつに暖かい食餌を与えてやろう。
「ああ――私も腹が減ったよ」
 深雲陽香。もう一度、女の姿を思い浮かべた。


  *


「大丈夫……ですか?」
 地に膝を立てた姿勢の七夕を、陽香は心配そうに覗き込んでくる。
「ああ、こんなもん舐めときゃ治るよ」
 憮然として七夕は言った。面白くなかった。これではまるで、陽香に助けてもらったみ
たいじゃないか。止められなくともあんな奴に負けはしなかったのに……。
 そんな思惑を鋭く察したのか「分かっていますよ」と優しい声で彼女は言う。
「でもね。きみがこれ以上怪我をするところなんて、見たくないですから――」
 陽香は七夕の顔に手を添えて、そっと顔を寄せる。
 口づけをするように、彼女は頬に舌を這わせた。額から頬へ流れ出た血液を、丁寧に舐
め取っている。獣が仲間の傷を舐めるような、慈しむような仕草で。
「おい……先輩、ちょっと」
 いつもの奇行にしても、やりすぎだった。
 止めてもらおうと声をかけようとすると、首筋に彼女の熱い吐息が当たる。
 くすぐったくて身を捩る。それが振り払うような動作になったのか、七夕に半ば寄りか
かっていた陽香は体勢を崩してしまった。
 そのくらい、普通なら立て直すことが出来たはずなのに。
 彼女は力なく倒れこんできた。慌てて抱きとめた身体はやはり熱い。息を乱して、苦し
そうにしていた。
「先輩?」
 声をかけると、蚊の鳴くような声で「大丈夫だから」と辛うじて返事が帰ってくる。
 この様子で、大丈夫なわけがなかった。
 病気の発作――だろうか。彼女が以前重い病気にかかっていたことは知っている。
 けれど彼女が発作を起こしたところを七夕は見たことがないし、病名すらも知らない。
 迂闊に判断することはできなかった。
(完治したんじゃなかったのかよ……!)
 早急に専門の医術師に見せる必要がある。
 ここからなら、診療所よりも学校が近いだろう。
 七夕は陽香の身体を抱き抱えて、保健室を目指して駆け出した。


  *


 葦原(あしはら)学院はイワトに設立された数少ない学舎の一つである。
 敷地面積は一平方キロメートルにも及び、小等部と高等部それぞれ三階建ての校舎が二
棟並んで立っている。
 イワトの子供たちは八歳から十五歳までの七年間を小等部、十六歳から十八歳までの三
年間を高等部に通い過ごす。
 小等部は義務教育だが高等部への進学は任意となるため、家業などの専門職を目指す人
々は進学しないことが多い。家業のある七夕が何故わざわざ高校(高等部は一般的にそう
略すことが多い)に通っているのかといえば、比較的安全度の高い学院内部が百鬼衆見習
いたる七夕、八斗、九葉の警備担当区域となっているからである。
 基礎教養を身につけつつ、学院内部の動向に聡くなる。一石二鳥だろうというのが当主
のお言葉であった。
(実際はこの二百倍くらい乱暴な言葉で言われたのだが、あの聞き苦しい罵倒と叱責と怒
声と銃声を思い返すのは精神衛生上よろしくないので控えておくことにする)
 最近の行方不明事件の被害者には学院生徒も多数含まれるため、実のところを言えば七
夕たち高校組は非情にまずい立場にある。責任問題というやつだった。


 高等部校舎、一階保健室。
 白い清潔なベッドには陽香が横になっていて、七夕は脇のパイプ椅子に行儀悪く股を大
きく開いて座っている。
「……あれだけ盛大に倒れたくせに。原因は『空腹』かよ。脅かしやがって」
 怒ったように七夕は言うが、本心では一安心していた。
 保険医術師の診察によれば原因は一目瞭然で『空腹と、空腹を我慢していたこと』だと
いう。やや栄養失調の兆候が見られるので、沢山食べてよく寝なさい、とのこと。
「ごめんなさい……心配かけちゃいましたね。でもほら、乙女には戦わなければならない
敵がいるものですから」
「……別に減量が必要な体型には見えないけどな。ともかく、倒れちまったら何にもなら
ねえでしょうが」
 陽香はもう一度、ごめんなさいと詫びた。
「うーん。最低限の食事はしてたんですけどね」
「おいおい、ちゃんと食べてんの?」
 彼女は悪戯を叱られた子供みたいに、ぺろりと舌を出す。
「えへへ、本当のことを言うとですね。最近は軽いものばかり食べて我慢してたんです。
 でもやっぱり、きちんと栄養のある食べ物を摂らないと持たないみたい」
 反省反省、と陽香は自分の頭を可愛らしく小突いた。
 そういう仕草が妙に似合う人なのだ。
「ところで七夕くん。今日、テストだったんじゃないですか?」
「ああ、その通りだぜ? それがどうかしたか?」
「……駄目じゃないですか。こんなところにいないで、テスト受けて来なさい」
 命令形で言われた。この人がたまに先輩みたいなことを言うと驚かざるを得ない。
「テストなんざ追試でいいよ。どうせ俺には家業があるし、成績関係ねえから。それより
今は、ここにいるほうがいいや」
 昨夜はほぼ徹夜だったし、普段から勉強などしている筈もないので真面目に受けたとし
ても結果は同じだし――とは勿論言わない。
 それに万一……万一のことがある。
 行方不明事件。今、ここで陽香から目を離したからといって、それで陽香が行方不明に
なってしまう可能性は零に等しい。だけど、この学校で心配なのはもう彼女だけだから。
 数少ない友人も行方不明になってしまって、もう彼女だけになってしまったから。
 気休めでも、今はここにいたいと思った。
「ん……まぁそういうことなら……私もいてもらった方が嬉しいですし……」
 気持ち上気した顔を俯かせて、もじもじと指を弄る陽香。
「俺よりもさ。復学初日から追試っつうのはまずいんじゃねえの?」
 陽香の様子には気付かずに、七夕はからかうように笑う。
「ご心配なく。私だってちゃあんと自分の将来くらい決まってますから」
 えっへんと形のいい胸を張って、言う。
「へえ? そりゃあまた。聞いてもいいかい?」
 素直にそう聞いただけなのに、彼女は酷く慌てた様子で言いよどんだ。
「あー……そう真正面から聞かれると照れちゃいますけど。女の子が夢見る将来っていっ
たら一つしかないでしょう」
「スーパーロボットのパイロットとかか? あぁ、スーパーロボットって言うのはさ、『外』
にある鉄の巨人みたいな奴で――」
「……誰の夢ですかそれは」
 何故か先輩の目が怖かった。
「姉貴」
「そのお姉さまは女の子ではありえません……」
「なんてこった……そうだったのか。俺も薄々そうなんじゃないかと思っていた」
 体型とか。
「特殊な趣味嗜好の人を基準にしないでくださいね」
 六海はさんざんな言われようだった。
「だって、男だろうが女だろうが、そいつがなりたい職業なんざ千差万別だろうよ」
 なのに、一つしかないなんて決め付ける陽香が悪いのである。そう思ったことを口にし
た七夕だったが、これが極め付けにまずかった。よく分からないが陽香は見る間に不機嫌
になった。
「もう……! 女の子が憧れる将来の夢っていったら、素敵なお嫁さんに決まっているで
しょう! これは古からの決定事項なんです! 分かりました!?」
 恐ろしい剣幕だった。こくこくと自動人形のように頷く七夕。
「でも先輩。じゃあ相手を探さないと。そればっかは一人じゃ無理だよ」
 そうですねぇ、と陽香は含みのありそうな微笑を浮かべる。山の天気のように、彼女の
機嫌は気まぐれだ。
「ところで、七夕くん。去年の夏にした約束……覚えていますか?」
「約束……? ああ、確か――先輩の病気が治ったら『外』に行こうって言ってたっけ」
 あの時、彼女は「最後に海が見たい」と言ったのだ。死んでしまう前に、イワトにある
ような灰色の海でなく『外』にある、という青い海を見てみたいと彼女は願った。
 そんな彼女に七夕は「病気が治ったら連れて行ってやる」と約束したのだった。
 思い返してみれば元気付けるためとはいえ無責任なことを言ったものだ。
 彼女を『外』へ連れ出すのはかなり難しいだろうのに。
「この通り治りました。そろそろデートの約束を果たしてくれてもいいんじゃないかな、
と私は期待しているのですが」
「……分かった。じゃあ週末にでも行こうか。それまでには体調も回復するだろうし」
 それまでには、行方不明事件も解決してみせる。
 『外』へ通じる『門』を開く『開門術』は本来禁術だが、構わない。
 恭二兄は顔に似合わず家族には凄く甘いから、頼み込めばきっと何とかしてくれるだろ
う。
「はい、楽しみにしています」
 彼女の笑顔を嬉しく思う。
 この一年間。ずっと七夕は……この笑顔を待ち望んでいたのだから。


 うっすらと漂い始めた甘い雰囲気を破壊したのは、ぴしゃり、と引き戸を勢いよく開い
た音だった。
「ああ……こちらにいらっしゃいましたか。兄さん」
 例の如く表情が乏しい九葉は、どこか不機嫌そうに登場した。廊下には八斗の姿も伺え
る。
「お邪魔をしたようですね」
 慇懃に言って、陽香に向かって会釈をする九葉。やはり若干声に棘があるような。
「ええ、かなりお邪魔虫でしたよ」
 にっこりと、そんなことを言い出す陽香。冗談で言っている筈なのだが、それにしては
空気が張り詰めてきたのは気のせいだろうか。
「おまえら、テストはどうしたんだよ」
 妹は問いに答えず、
「仕事です。一緒に来てください」とだけ言った。
 それで察した七夕は、頷いて腰を上げる。
 なるほどこの非常事態では、テストなど受けている場合ではないということか。
 大方事件に進展があって、こいつらはテスト免除の手続きをしていたのだろう。
 勉学よりも学内警備が我等の本業なのだ、故に有事の際には堂々と授業をサボれるので
ある。尤も、きっちりと準備を整えていた二人には残念な結果だったのかもしれないが。
「悪いな先輩。そういうわけだから、俺はもう行くぜ」
「分かりました。お仕事頑張ってくださいね」
 七夕は戸の手前で振り返る。
「ああ。先輩もちゃんと飯食えよ」
 陽香は「はい、分かりました」と笑って言った。





 獅条家高校組三人は、屋上に揃って作戦会議を進めていた。
「……ここ一月の行方不明者総数は三十一人。うち二十三名がはぐれ人狼の被害者と判明
しています。これは人狼の頭目による口述ですが、衣類所有物などからほぼ裏は取れてい
るそうです」
 使い魔から受け取った文書を読みながら、九葉が内容を解説する。
 真黒い鴉の使い魔は、奉行所の伝令である。妖怪との直接戦闘は獅条の独壇場だが、こ
ういった細かい鑑識業務などでは公的機関の協力を仰ぐことも多い。
 昨夜の報告から件の廃墟は調べ尽くされて、結果が出たのがたった今、というところだ
った。
 人狼たちは獅条が差し向けた監視を殺害し、夜闇に紛れ二十三人もの人間を食い殺した。
 再び補足し、全滅させるまでに要した期間は約半月。
 この結果は獅条にとってみれば大変な失態である。これでまた『はぐれ』への対処が厳
しくなるかもしれないが、元より『はぐれ』が人間に害をなさないケースなど稀なのだ。
 いっそ勧告なしで殲滅してしまえばいいと、血の気の多い七夕などはそう思う。
 少なくとも監視に就いたのが自分であったならば、無様にやられて人里を襲われること
などなかったろう。
 階位一桁とは言わずとも、中堅程度の百鬼にならば劣らない実力がある。自身の力を、
そう確信している七夕は、見習いという現状に歯がゆい思いをしていた。
 百鬼衆は、実力順に与えられた百の位階から成る総勢百名の部隊である。欠員が出たと
きに随時選別試験を行い、人員を補充しているのだが……前回の試験は酷かった。
 七夕に与えられた課題は、嫌がらせとしか思えない内容だったのだ。
 百鬼衆第三位、獅条恭二の撃破。
 結果は現状を見た通り。何か、当主の悪意を感じずにはいられない。
 今回の事件で欠員が出たから、一段落したころにまた試験が実施されるだろう。
 今度こそはその悪意ごとぶちのめしてやろうと、七夕は密かに決意している。


「残る八名については、二名、遺体で発見されてますよね」
 痛ましそうな顔で言ったのは八斗。この仕事に彼の性格は合わないのではないか。七夕
はいつも、そう懸念している。
 何しろこいつは、まだ一匹の『妖怪』すらも殺したことがないのだ。その能力にしても、
とても戦闘向きとはいえないし……何より八斗は優しすぎる。
 九葉も含め、こいつらには血腥い仕事なんて似合わない。こういうのは、七夕のように
純粋に戦闘を愉しめる人間に任せてしまえばいい。
 こいつらがわざわざ手を汚すことなんてないのにと、兄としてはいつも忍びない思いで
いる。
「うち一人は新市街にある病院の医術師だ。ええと、確か先月の中ごろだから――、一月
くらい前になるな。病院の同僚が通勤途中、茂みの中に『喰い残し』を発見している。緘
口令を敷くまでもなく、病院の名誉と売上げのために情報は漏らさないでくれるだろうぜ。
 この医術師はいつも遅くまで残っていたんだと。郊外の病院は周りに民家もなくて、夜に
なると人っ子一人通らない。当然目撃者もいない、と。これだけじゃあ、なんともいえね
えな」
 柵越しに空を見る。初夏の日差しは爽やかなのに、不穏な事件が嫌な影を落としていた。
 既知の情報を整理していた一同だったが、七夕はいつの間にか九葉の視線が冷たくなっ
ているのに気がついた。
「何だよ?」
「……ことは急を要します。今更見え透いた韜晦をするのは止めてください。
 兄さんの言うとおり、病院は損得勘定で情報は漏らさない。なら、巷で出回っている『食
人鬼』の噂の出所はどこだっていうんですか? 発見されている遺体は二つ。一人は医術
師、もう一人は学生。まあ……生徒に学校の利害は関係ないでしょうから。
 そう、つまり――噂の発生地点は『ここ』です」
 敷いた茣蓙の上に正座している九葉は、上半身だけを捩って屋上のある一点を指し示し
た。『そこ』にはかつてブチ撒けられた液体の染みが醜くこびり付いている。
「被害者の名前は甲賀遼平(こうがりょうへい)。三年生。親しい友人筆頭は獅条七夕。そして第一発見者もま
た、獅条七夕。……いいですか、私たちが当てにしている最も大きな手掛かりは、他でも
ない貴方なんですよ、兄さん」
 軽く舌打ちして不愉快そうに目を細める七夕。
「とぼけたつもりはねえよ。ただ、俺だってたいしたことは知らねえってだけだ」
「それは兄さんお一人の判断でしょう。情報を正しく共有するのが目下の優先事項です」
(……しっかりしてやがる)
 この面子で仕切るのが一番年下の妹というのは、能力的には正しくとも兄的にはどうな
のかと思わなくもない。まあ自分は戦闘が専門なわけで、頭脳労働は得意な奴に任せてい
るだけなのだと自己弁護しておく。
 かといって九葉が七夕よりも戦闘能力で劣っているかといえば、何とも言えないわけで
……
 年々苦しい立場に追いやられつつある兄・七夕であった。


「遼平はいい奴だったよ。べらぼうにいい奴だった。人徳で生徒会長になったくらいだし、
なんせ俺と友達になろうなんて奇特なヤロウは、他に一人くらいしか知らないからよ。
 あいつはあの日、部活で遅くまで残っていたらしい。剣道部。結構な腕前だったんだぜ、
あいつ。帰りも校門までは部員たちと一緒でさ、そこで――」
「――急に用事を思い出したと言って、別行動を取った」
 七夕の言葉を途中で引継ぎ、九葉は言う。
「んだよ、おまえらも調べたのかよ。じゃあ、改めて俺から言うことは何もないぜ」
「いいえ。兄さんに聞きたいのは寧ろ、ここからです」
「はん?」
「……その後の甲賀先輩の足取りを知っている人は今のところ見つかっていません。です
が、最終目的地は決まっています」
 屋上、か。
「けどよ、他の場所で殺された可能性だってあるだろう?」
「いえ……被害者は喉を切り裂かれて絶命しています。頚動脈を切って、です。だから、
他の場所で殺されたのであれば、こんなに血が飛び散ることはありえない。
 甲賀先輩がここで亡くなったのは、ほぼ間違いないでしょう」
 まるで探偵のように九葉は自説を展開する。その論拠は十分に説得力のあるものだった。
 ほぼ、というのは何らかの能力者や妖怪ならば、理論を超越する可能性がありえるから
だ。だが、そこまで例外を懸念していては推理などそもそも成り立たない。今は少しでも
可能性の高い論理に則って行動すべき時だった。
「ですから兄さんに伺います。甲賀先輩が、帰宅途中で突然屋上に行くような理由に――
心当たりはありませんか?」
「ある」
 と、七夕は即答した。
「あるっちゃあ、あるが――だがなあ」
 煮え切らない態度の七夕に、八斗は言う。
「一見関係なさそうに見えても、みんなで考えれば何か分かるかもしれない。言ってみて
よ、にいさん」
「そうか、そうだな。いや、あいつさ。どうやら好きな女がいたらしいんだわ。で、即断
実行のあいつにしては珍しく、何でか知らないがずっと言わないで我慢しててだな。この
まま言わねえで終わるのかと思ったら、最近になってまたその話題を振ってきやがったん
だよ。これはいい切っ掛けかもしれないとか、駄目で元々玉砕してくれようとか、半分独
り言みてえに言ってやがった」
「つまり兄さんは、その、甲賀先輩が下校中に『ずっと好きだった女性』を見つけたのだ
としたら。屋上に連れ立って向かってもおかしくない。そうおっしゃるわけですね」
「そうだ。けど、こりゃあ幾らなんでも違うだろう? だってそんなこといったらよ」


 ――この学校の生徒が犯人ってことになっちまうじゃねえか。


 しん、と静まり返った。八斗も九葉も、難しい顔で考え込んでいる。
「おいおい……おまえらまさか」
「その可能性はあります……いえ、寧ろそう考えれば色々と辻褄が合うことが多い。思え
ば、残る行方不明者の殆どが学校関係者で占められているのですから」
 七夕の希望を打ち砕くように、九葉は断じた。
「……その女性の名前、聞きましたか?」
「聞いてない」
「本当ですか?」
「嘘じゃねえよ、幾ら聞いても教えてくれなかったんだ、あいつ。水臭えったら」
 無駄に整った馬鹿面を思い出して、ちっと舌打ちで掻き消す。
「出席簿を確認しましょう。恐らくは、その当日に出席していた女生徒の中に、犯人がい
ます」