意識を失ってなお立ち尽くす獅条七夕の姿を見て、操は正気を取り戻した。
引き抜いた掌には、腹を貫く手応えがしっかりと残留している。血塗れた爪を呆然と眺
め……頭蓋に走った物凄い痛みに、頭を抱え蹲った。
「ぐあっ……!」
再び身体を支配せんと、隻眼王の意識が精神を侵食してくる。
(何故止めを刺さねェ……その男はオマエを殺そうとしているんだぜ? なぁおい、眼を
覚ませよ。テメェだって獣人の端くれだろうが。喰らってやればいいんだよ。我慢するこ
たぁねえ。オマエ……いや、『オレたち』に逆らう奴等は皆殺しにしてやろうぜ)
「黙れッ! 違う、私は……」
操は立ち上がり、その場から逃げ出すように飛び出した。
「お嬢っ!」
玉緒の叫び声を背中に受けながら走り去る。
いつ暴走するかしれない自分は、もうここにいるわけにはいかなかった。自分の意識が
残っているうちに、このおぞましい怨霊諸共、自分自身に始末を付けなければならない。
ただ、この手に掛けてしまった七夕のことが気掛かりだった。
服に結界の呪符を仕込んでいたのだろう。妖気を帯びた操の爪撃は、相当に強力な結界
でない限り貫き通す。しかし紫電に弾かれ僅かに狙いを逸らされた爪は、彼の急所を僅か
に外していたのである。
……助かって欲しい。あいつには、死んで欲しくない。
操は祈るような気持ちで唇に牙を食い込ませた。
(それで、どこに行くつもりだ宿主?
そっちからは糞忌々しい獅条の匂いはしないぜ?)
嘲弄するように、隻眼王は精神に直接語りかけてくる。
(それとも自決するか? いや、それなら今すぐにだって出来る筈だよな……なら何故そ
うしねェ? 正直に言っちまえよ、テメェだって死にたかぁねぇんだろ?)
「おまえの言うとおりだ。隻眼王とか言ったな……私だって、まだ死にたくはないさ」
(ハン、素直になったじゃねぇか。なら――)
「だがな、私の身体が貴様のような下種にいいように使われるのは――それ以上に我慢な
らん」
そう、そんなことになるくらいなら。ついさっきの光景が何度も繰り返されることにな
るというのなら――死んだ方がよほどマシだ。
操には、七夕が言うように人を喰った記憶はない。無論、自分の与り知らぬところで、
隻眼王が操の身体を操作して、食人を繰り返していたのかもしれないが。
……どちらにしろ、自分はもう助かるまい。
ならば自決する前に、やり残した仕事を片付けておこう。
――犬殺し。
操は自分以外にもう一人、食人鬼の正体にアテがあった。
鼻をひくつかせて『あいつ』の匂いを探る。この時ばかりは、皮肉にも変異の嗅覚が
役に立った。すぐさま記憶にまざまざと焼きついた体臭を探り当てることが出来た。
人を殺した妖怪は、速やかに始末する。例外はない、誰であれ殺すと彼は言った。
その言葉に嘘偽りはない。彼は本心から言っているし、事実そうするに違いないのだ。
だけど……『あいつ』だけは、七夕の手を煩わせることなく、自分の手で始末しなけれ
ばならなかった。どうしてもそうしなければならない理由があった。
「隻眼王。おまえ人を喰らいたいんだろう? それなら少しの間だけでいい、大人しくし
ていろ。……思う存分喰わせてやる」
(ホォゥ、物分りがいいな。だがよ、そいつは美味いんだろうな)
降り注ぐ日差しの中を、獣化した少女が駆けていく。その矛盾に気付くものは、しかし
誰もいない。今の彼女を見止めても、一陣の風が通過したとしか思えないだろうから。
「勿論だ。それだけは、この私が保障しよう」
今や風と化した少女の顔には、凄愴な笑みが浮かんでいた。
*
紅い月明かりが炯々と宵を照らす頃、獅条の屋敷へと招かれざる客がやってきた。
何処も彼処も煤汚れた女は、自分の身なりに頓着している風もなく、ただ……とても疲
れた顔をしていた。
見目麗しい女性であることを除くなら、守るべき主を喪った敗国の落武者のよう。
彼女は、腕に動かぬ死体を抱えていた。
「にいさん……?」
来客を応対した獅条八斗は、奇妙な女の様子と変わり果てた兄の姿に慄然としたものの、
すぐにより強い焦燥に駆られ、恐る恐る隣に並ぶ九葉の顔を覗きこんだ。
「――――誰が、兄さんを殺したの?」
凛と、明瞭な響きで問うた九葉に、表情はなかった。けれど……いつもの無表情とはま
るで質が違う。彼女はそもそも無感情ではなく、表情に感情を表さないだけなのだ。
心を見通す眼があるならむしろ、喜怒哀楽の豊かな年相応の少女だということが分かる
だろう。それを、ずっと連れ添ってきた八斗はよく知っている。
そんな八斗をして、九葉のこんな顔を見るのは初めてだった。
表情だけは凍りついたまま……潤んだ瞳孔が裂けて、半鬼の相貌を成している。
今にも目前の女を引き裂いてしまいそうな、酷く危うい雰囲気。
「わたしの一存でお答えするわけには参りません」
女の返答は最悪のものだった。彼らはつまりこう言っているのだ。この度の一件は、自
分たちで始末をつける、と。
獅条との確執深い犬神が身内から『変異』を出して、その始末を獅条に委譲することに
抵抗を感じるのも分かる。
……だが、あまりにも立場を弁えぬ、こちらの心情を無視した言い分。
「そうですか、よく分かりました。……七夕兄さんを殺しておいて、あなた方は渡す情報
などないと、何も話すつもりはないと。そう……おっしゃるわけですね」
「左様でございます」
女は無謀にもに言い切った。静かに怒れる半鬼を前にして、その言は自殺行為以外の何
物でもなく、八斗が兄の遺骸を引き取るのを見届けるや、九葉の堤防は脆くも決壊した。
細く華奢な少女の腕は、使者の頸へと伸びて掴むと、矮躯に相応しからぬ剛力で首吊り
にし――握り潰さんばかりに締め上げる。
「……ぅ、くっ」
ぎりぎりと女の肌に爪が喰い込み、紅い血球がぽつぽつと浮かび上がる。苦悶に呻く声
を聞き止めてさえ、九葉の貌は蒼い炎のような怒りに染まっていくばかりだった。
「ふざけたことを言わないで……! 兄さんを、こんな――許せない……っ」
「九葉!」
八斗が投げた静止の言葉にぎろりと一瞥を向けた九葉は、今度こそ泣いていた。
……なんてことだろう。嗚咽を漏らしながら首を絞める姿なんて、彼女には最も縁遠い、
似合わない姿なのに。
「……どうして止めるの? 八斗。もう状況だけで明らかでしょう。人喰いの『変異』は、
犬神の中にいた。彼女が韜晦するというなら、無理矢理にでも口を割らせるだけ……」
「にいさんは生きている」
「えっ……?」
九葉の力が抜け、宙吊りにしていた女を取り落とす。
「重症を負った時、自ら仮死状態になって全ての妖力を治癒に回す――そういう技術があ
るのを、九葉も知ってるよね? 酷い怪我だけど、にいさんは死んじゃいない」
腹部を血で染めたシャツを開いて、七夕の身体を触診しながら、八斗は断じた。
「本当に……?」
「うん、僕は九葉に嘘を吐いたりしないよ」
優しい、柔和な口調だった。
ようやく安心したのか。傀儡の糸が切れたように、九葉は膝を折って座り込んだ。
八斗は続けて、爪痕がまざまざと残る喉を押さえ咳き込んでいる女へと話しかける。
「ごめんなさい……妹が失礼をしました。えっと。名乗るのが遅れましたね、僕は獅条八
斗といいます。犬神のお姉さん、お名前を聞いてもいいですか?」
「はい……犬神玉緒と申します」
「にいさんの傷はきちんと応急手当を施されている。つまり、玉緒さん。貴方はにいさん
が生きていることを知っていて、あえて誤解を解かなかったんですね。……殺されるかも
しれないと、分かっていたのに。どうしてですか?」
玉緒はひとくさり躊躇ったが、真っ直ぐに見つめる少年の眼に根負けしたのか、心情を
吐露し始めた。
「この御方は、わたしを庇って……お怪我を負われました。それに――」
言い差した玉緒はかぶりを振って、続く言葉を飲み込んだ。
言いたくないことなのだろう。ともすると『変異』は彼女の親しい人なのかもしれない。
七夕を倒すほどの『変異』をどうやって撃退したのかは知らないが、情報を漏らせない
という彼女の言から、何らかの理由で『変異』は現場から逃走したものと思われる。
「わたしは……殺されても仕方のないことを致しました。どうぞ、お気の済むようになさ
ってください」
八斗は首を横に振る。
「それは軽率ですよ。さっき九葉が貴方を殺してしまっていたら……元より仲の悪かった
獅条と犬神の間には、決定的な溝が刻まれていたでしょう。
どうか考え直してください。にいさんの怪我はあくまでにいさんの責任です。ほら、こ
れを見て」
言って、八斗はアンダーシャツの中心に貼られている、破れた呪符を見せた。
「にいさんが貴方を庇ったのは、服に仕込んだ結界の防御をあてにしていたからなんです。
その場で見ていたわけじゃないけど。にいさんの性格から考えても、決して自己犠牲の
精神で、命を捨てて貴方を助けようとしたわけじゃないと思う」
尤も七夕の計算以上に、敵の攻撃は強力だったのだろう。
傷跡からすると、恐らく爪。
けど、獅条七夕の結界を貫通する爪とは。
一体どれほどの威力、どれほどの技術によって放たれたものなのか。
「だから……ね。そんなに思い詰めないで。貴方の大切な人は……残念だったけど、貴方
まで死んでしまうなんて、絶対に駄目だと思います」
「忝のうございます……」
犬神玉緒は深々と一礼して、心許ない足取りで帰っていった。
「さ……九葉、にいさんを運ぼう。見たところ応急手当は完璧だけど、まだ危険なことに
は変わりない。恭二にいさんにも連絡を取らないと」
「う……うん。でも、よかったの? あの人を帰しちゃって」
百鬼の中には拷問や精神操作を得意とし、対象から強制的に情報を引き出す能力を持つ
ものもいる。みすみす情報源を取り逃してもいいのかという意味だった。
言外に含まれた昏い意図に気づかぬ振りをして、八斗は諭すように言い聞かせる。
「彼女が言えないというなら、そう簡単には言わないと思う。ほら、犬神の忠誠心はすご
いらしいし。それに、にいさんの目が覚めれば自然と分かることだしね。今、ここであえ
て犬神と悶着を起こすことはないよ」
分かってくれたのか、九葉はぺたりと座り込んだままで、こくりと小さく頷いた。
九葉の殺気に反応して集まってきた兄弟たちにも手伝ってもらい、屋敷の一室に七夕は
寝かせられた。
八斗は妖術を針術とを組み合わせた医療術式、『妖針術』を嗜んでいる。針に妖気を流
して効果を増幅させるという方式が獅条八斗固有の妖術と相性がいいため、八斗は然程苦
労することなく高等医療技術である『妖針術』を身につけることができた。
勿論恭二などが使う『治癒術』のように、傷を急速再生させることはできないが。
針一本で麻酔を掛けたり、血行を促進させたり、病気を治療したりと主に内科的治療に
おいて妖針術――人間が行使するものは霊針術という――は『治癒術』以上に重宝され、
医術師の必修技能とされている。
こと疼痛管理で、生来固有の妖力を針に応用している八斗の右に出るものはいるまい。
針による治療を一頻り済ませると、はらはらと見守っていた九葉に席を譲った。
潤んだ目で心配そうに兄に付き添う九葉をよそに、八斗は恭二へと伝令を飛ばす。
伝言内容は二つ。
七夕が変異に襲われ危篤であること。
『食人鬼』は犬神の『変異』である可能性が高いこと。
今日の捜査で得た成果『変異が学校で狩りをしている可能性』については、あえて触れ
なかった。言ったところで意味は薄いし、出来ることといえば今日とあまり変わりなく、
全校生徒が下校する時間まで校内で感覚を研ぎ澄まし、策敵しているくらいしかない。
校内を夕暮れまで隈なく捜査した二人であるが、特に目ぼしい進展はなく、得た手掛か
りといえば甲賀遼平の想い人がどうやら三年四組の女生徒であったという噂くらいであ
る。
「……八斗」
「なに、九葉?」
布団に寄添う九葉の背後から、ちょうど部屋に戻って来た八斗は返事をする。
「必ず、私たちで兄さんの仇を取りましょう。こいつ……絶対に許さない」
決意を告げた九葉は、七夕の手を握って、血が出そうなほどに唇を噛み締めていた。
「なら、今はゆっくり休むことだよ。敵は強い。体調は万全にしておかないと」
「でも……!」
彼女の懸念は、今もなお全霊をもって捜査を続けている百鬼衆や、身内を自ら狩りに出
たのであろう犬神の精鋭たちに先を越されてしまうのではないかというものだった。
「大丈夫。『変異』を狩るのは僕たちだ。他の誰にも出来やしない」
まるで確定事項のように、八斗は言う。
犬神という新たな情報を得た百鬼だが、仮に犬神が『変異』したというのなら、戦闘能
力のみならず、その機動力も大変なものになっているに違いない。食餌のために狩りをす
れば網に引っかかることもあるだろうが、それは向こうとて弁えている筈。今日明日で補
足出来るとはとても思えなかった。
すなわち持久戦。『変異』が堪り兼ねて食餌を採るまで、追手らは半ば不眠不休で張り
込みを続けるしかない。うえに百鬼の最大戦力たる恭二が、七夕の治療のためにしばらく
捜査から離脱することも、大きなファクターであるといえた。
「そもそも、この事件にはまだおかしな点が幾つもあるんだ。
一つ『変異』になると通常の食事では満足できなくなり、変異の身体を維持するため
に必ず生きた獲物を喰らって精気を得なければ生きていけない。だったらすぐに百鬼の網
に掛かってもおかしくはないのに。結局尻尾を見せたのは最初の二件だけで、こいつは一
月を超えて、今だ逃げおおせている。
二つ。一月で喰らった人間の数が最大で見積もっても八人と極端に少ない。どんなに燃
費のいい変異だって、これじゃ餓死しちゃうよ。でも、七夕にいさんを返り討ちにするく
らいだから、少なくとも飢えて弱ってはいないってことになる。
そして三つ。なぜ、学校を狩場にするのか。やっぱり……ここがキーポイントだと思う。
『食人鬼』は何か、二回の失敗を教訓に、僕たちの目や感覚を欺く上手い狩りの方法を見
つけたんじゃないかと思うんだ。
明日、もう一度学校を調べてみよう。闇雲に追うよりも、きっと犯人への近道になる」
九葉は力強く頷き、
「……犬神操」
憎悪と共に吐き出された名は、七夕が怪しいと睨んでいた女のもの。
「分かってる。まずは彼女のクラス、三年四組の教室……だね」
兄をこんな目に合わせた奴を、九葉は許さないという。
八斗は思う。なら僕は妹を、九葉を泣かせた奴が絶対に許せない、と。
二人の想いは重なり合い、一つの目的へと収斂する。
決然と拳を握る九葉の背後……静かに佇立する美貌の少年は、普段の彼には相応しから
ぬ熱い灼熱のような怒りを胸に抱いていた。
胸の奥底から、固く封じた筈のドス黒い闇が、怒りと共に今再び染み出してくる。
地獄の門が僅かに開き、薄笑む鬼が、じっとこちらを見つめている幻視。
妹が振り向くまでのほんの数秒……少年の口元は、酷薄な薄笑みに歪んでいた。

|