深雲陽香は獅条家の門前でそわそわと待っていた。彼女は放課後になるとその足で買い
物を済ませ、袋を提げたまま獅条家へと直行したのだが……ちょっと早く来すぎてしまっ
たらしい。九葉に許可された刻限までにはいま少しの時間がある。
 やがて日は傾いて、茜色の空に薄暗い闇が混じり始める。逢魔が刻の訪れを待って、陽
香は鬼の棲む屋敷の固く閉ざされた門扉を叩いた。
「ごめんください」
「はい、お待ちください」
 大きな屋敷の筈なのに、すぐに返答が帰ってきた。どうやら相手方も、門の反対側で待
っていたらしい。律儀というか、杓子定規というか……軋みを上げて開いた門から現れた
人影は、やはり九葉であった。
「こちらへどうぞ、先輩」
 九葉は抑揚のない声で陽香を一瞥すると身を翻し、すたすたと先に歩いていってしまう。
 陽香は早足で後に続いた。
 獅条家に入ったのは、実はこれが初めてだった。色々な意味で緊張してしまう。
 立派な屋敷なのに、広い庭には隅にぽつぽつと松や桜が生えているばかりで、装飾とい
うものがなかった。陽香のイメージではもっとこう……灯篭や池があって、煌びやかな鯉
が泳いでいるものだとばかり思っていたのに。
 でも、一方で得心してもいた。殺風景で飾らない庭は、大好きな人と同じ雰囲気がした
から。
「はぁ……ここが七夕くんの家なんですね……」
「あまり勝手に動かないでくださいね。罠とか、ありますから」
 うっとりと家を眺めていた陽香の気分はたった一言で破壊され、彼女は心機一転びくび
くと身を固くしたのである。
「もう、怖い家ですねぇ……。ところで九葉ちゃん、あっちの建物って?」
 警戒心からきょろきょろと周囲を見渡した陽香は、庭の先に一軒の建物を見止めた。
 仰々しく注連縄で囲われていて、遠くてよく見えないが、神社めいた建物のいたるとこ
ろに御札のような紙片が張られているようだった。
 まるで、何かよくないモノを封印しているような。
「……聞きたいですか?」
「やっぱりいいです」
 九葉の口調から、『これ』は聞くべきではないと考え直した。あれは関わってはいけな
いモノだと陽香の本能が警笛を掻き鳴らしている。もしかするとあれが噂に聞く獅条の始
祖――『鬼』を封じた神殿なのかもしれない。
「兄さんの容態がまだ落ち着いていませんので、申しわけありませんが、会うのはもう少
し待ってください」
 この世の終わりのような顔をした陽香を見て、九葉は言い加える。
「……治癒に時間が掛かっているだけですから、心配はいりません。
 別室で待ってもらっても?」
「いえ、でしたら台所を貸してくれませんか?」
 陽香は買い物袋を掲げて見せた。実は最初から台所を借りるつもりで来たのだった。
 材料を見定めるように眺めると、九葉は微笑と共に頷いた。
「……兄さんは、幸せ者ですね」


  *


 二人は台所へ移動すると、それぞれの調理を始めた。米と調味料だけはありがたく使わ
せてもらい、七夕のために雑炊を作ることにした陽香だったが。
 案内してくれた九葉も、そのまま夕食の準備に取り掛かったのである。
「家ではいつも九葉ちゃんが食事を作ってるの?」
「いえ、いつもは姉が作りますが――今日はちょっと出かけているので、私が」
「へえ……じゃあ悪いことしちゃったかな?」
「何がです?」
 九葉は可愛らしく首を傾げて、不思議そうな顔をする。
「怪我をしたお兄ちゃんに、美味しい御飯を作ってあげようって張り切ってたんじゃない
かなって」
 むっ、と唇の下に小さな梅干を作って眉を潜める九葉。これは図星の顔だった。
「それは先輩の話でしょう。私が張り切る理由なんてありません」
「ふーん……そうですか」
 疑わしげな流し目を送る陽香。
「なっ、何を勘違いしているのか知りませんが、私と兄さんはそういうのじゃありません
から……! それよりも――ずっと聞いてみようと思っていたんですが」
 先輩は兄さんのどこが好きになったんですか、と九葉は問うた。
 陽香は料理の手を止めて人差し指を顎に当て、うぅん……と、考え込んでしまう。
「んー、難しい質問ですね」
「そんなに考え込むほどですか……兄さんのいいところ」
 九葉は、分からなくもないですと言いたげな顔をしていた。
「えへへ、やっぱり全部好きかな」
 うっそりと陽香は言った。
 精悍な顔も、綺麗な白髪も、悪そうな三白眼も、ぶっきらぼうな口調も、一度決めたら
頑固なところも、鈍感なところも、短気なところも、お馬鹿なところも、可愛いところも、
格好いいところも、兄弟想いなところも、心配性なところも、照れ屋なところも、平均身
長よりもちょっとだけ背が低いことを気にしているところも、指も、腕も、足も、肩も、
腰も、腿も、脛も、肘も、膝も。
 嫌いなところなんて一つもなくて、何もかもが愛しかった。
 彼がいれば、他には何も要らないほどに。本心から、陽香はそう思っている。
「……重症」
「はい、きっと不治の病です」
「……言い切りますか。それはどうもごちそうさま。先輩と兄さんは、確か二年前の入学
式で初めて会ったとか?」
「いいえ、違いますよ」
「?」
 九葉は再び首を傾げたが、陽香に答える気がないと悟ると、興味が失せたように作業に
戻った。


 初めて会ったのは二年前。彼も、きっとそう思っているに違いない。
 でも、本当は違うのだ。彼を始めて目にしたのは――
 ああ……覚えている。あれは、五年前の夏。陽香が十四歳の頃の話だ。
 あの時も今日みたいに太陽の日差しがきつかった。道に陽炎が出来てしまうくらいに。
 体育祭だというのに、体の弱い陽香は催しに何一つ参加することができず、校庭の片隅、
柳の根元に座り込んでいた。
 きっと人形みたいに無感情な顔で。虚ろな瞳で。
 楽しそうにはしゃぐクラスメイトたちを、遠く眺めているしかなかった。
 その時の心情を一言で言い表すならば「妬ましい」だったろう。
 僻むばかりで能のない、つまらない自分。大嫌いな私。
 どうせ私はもうすぐ死ぬのだから――何をしても無駄なんだ。
 そんな言葉を言い訳にして、何も考えないように、日々を怠惰に過ごしていた。
 そうしなければ、刻々と近づいてくる死に押し潰されてしまうから。
 不治の病。
 余命は、四年だと言われていた。
 死の恐怖に脅えて暮らすには長すぎて、人生を謳歌するには短すぎる……
 目の前に横たわる四年という刻限は、陽香にとってこれ以上なく残酷な時間だった。
 この身は満足に動くこともままならず、楽しいことなんて何もない。
 そう決め付けて、自分からは何もせずに、いずれ来るだろう死神を待つばかりの日々。
 陽香が死んで、いなくなっても。日が昇れば朝が来て、日が落ちれば夜が来る。
 毎日毎日、何も変わらず世界は続いていく。そんなのは、ずるいと思っていた。
 ――私がいない世界なんて、滅びてしまえばいいのに。


 胡乱な視界の先では、体育祭のメイン種目、リレーが始まっていた。
 葦原学院の体育祭は、小等部と高等部の合同で行われる。学院全体が、陰と陽の二組に
分かれて勝敗を競い合うのである。
 興味なんてなかったけれど……他にやることもないので、ぼんやりと眺めていた。
 陽組の最終走者は飯綱(いづな)某という人で、その時の陽香の認識は、単に学内で一番足の速い
人というものだったのだが。
 今にして思えば鬼と風神を祖に持つ半妖――獅条分家の人に違いなかった。
 対する陰組の最終走者は……何故か待機場所に見当たらなかった。周りの人も、どうや
ら探しているような雰囲気だった。
(あ、逃げたんだ)
 陰組の最終走者は、勝てる筈のない勝負から逃げたのだろう。陽香は当たり前のように
そう思った。自分が同じ立場だったなら、きっとそうするだろうから。
 暗い仲間意識を感じて少しだけ気をよくした陽香だったが、
「きゃ……!」
 突然目の前――柳の枝から飛び降りてきた人影に、短い悲鳴を上げてしまった。
 柳は学校を囲う鉄柵に隣接していて、柵よりも足場としてはしっかりしている。
 身軽な生徒の中には、校舎裏の森から木々を飛び渡って近道をしてくる校則違反者がい
るのだが、その際校庭への玄関口となるのがこの柳だという。時折こうやって、乱暴に枝
から降りてくる人がいるのだ。
 背の低い、白い髪の男の子だった。
 喧嘩でもしてきたのか、彼は額から血を流していた。服装も体育着ではなく、泥だらけ
の制服のままで、しかも肘や膝に孔が開いてしまっている。
 妖怪退治を終えてきたばかりなのだろうと、今でこそ分かるけれど。
 当時の陽香の眼には、野蛮で汚らしい下級生としか映らなかった。
「なぁ、リレーって終わっちまった?」
 吃驚して尻餅を付いている陽香に向かっての、第一声がそれだった。
 声変わりもしていない可愛らしい少年の声なのに、無性に腹が立ったのを覚えている。
「君ねぇっ……!」
 自分なりに精一杯怖い顔をして、きっと睨み付けたものだ。
「あー……悪ぃね、先輩。そんな怒んないでよ、ちょいと急いでたもんでさ」
 睨まれてようやく自分の非礼に気付いた後輩は、ぽりぽりと頬を掻いて気まずそうに言
うと、両手を合わせて改めて頭を下げ「本当ごめん!」と威勢よく詫びた。
「……別にいいですけどね……ほら、リレーなら丁度次で最後ですよ」
「やべっ! じゃあ先輩、俺行くわ!」
 そうして、もう振り返りもせず、名も知らぬ少年は行ってしまった。
 七夕との出会いのシーンは、もう何度となく頭の中で再生しているので、とても鮮明に
覚えている。思えばあの子は最初から「先輩」と呼んでくれていたのだ。
 何だかくすぐったいような、不思議な感触がして、思い返すたびに陽香はくすりと笑っ
てしまうのだった。


「ちょ……先輩? 何ぼーっと不気味な薄笑みを浮かべてるんですか……! 火の勢い強
すぎです!」


 慌てて走り去った少年は、なんと陰組の最終走者だったのである。
 瞠目して眼を剥いた陽香だったが、何をかいわんや当時の自分は七夕のことをずっと年
の離れた子供だとばかり勘違いしていたのである。彼の運動能力を鑑みれば、むしろこの
人選は陰組の最適解であったろう。
 だから……あの結果は相手が悪かったとしかいいようがない。
 たすきを受け取るや、陽組の最終走者は火箭のような加速で七夕を後方に置き去りにし
たのである。獅条でも最速を誇る飯綱の韋駄天の前に、七夕の勝ち目など最初から、微塵
すらもありはしなかった。
「…………」
 敵の歓声と、味方の失望の嘆きの中を、それでも彼は懸命に走り続けた。
 最終走者は一周八百メートルの運動場を二週してゴールに至る。
 二人の最終走者は一周遅れで重なり合い、また再び差が付き始めた。
 完全に勝負が付いたと誰もが理解したその後すらも、速度を落とすことなく全力で走り
続ける彼の姿は……失笑を誘うほどに滑稽だったのだけれど。
 きっとこの時、陽香の心は奪われてしまったのだ。
 この虚ろな胸に、鮮烈な痛みを焼き付けた男の子の姿に――
「ふふ……」
 人に話せば、ありきたりだと笑われるかもしれない。
 つまらないよくある話だと自分でもそう思う。
 だけどこんな些細な出来事が、深雲陽香の初恋だった。


「……先輩、今なんか凄いの入れました?」
「えっ? 何か言った、九葉ちゃん」
「その……いえ、私の眼の錯覚……だといいなぁ」


 それから改めて彼に声をかけるまでに三年も掛かってるのが、自分らしいと陽香は思う。
 もちろん初めから今みたいに強い想いを抱いていたわけでもない。しばらくすれば風化
して忘れてしまう、淡い恋だったはずなのに。
 三年という、決して短くない時間が経っても、何故かあの日の記憶は色褪せることなく、
むしろ刻と共に降り積もる雪のように――心を埋め尽くすくらい大きく成長して、胸の中
に息づいていたのだ。


 二年前の入学式を思い出す。入念ならぶらぶ出会い計画を立てていた陽香は、廊下の曲
がり角に潜んで、歩いてくる新入生――七夕を確認すると、少し後ろに下がってから突撃
を慣行した。当時の自分の意気込みと緊張ぶりを思えば、もしかしたら掛け声くらい出し
ていたかもしれない。
 もちろん体当たりをしようとしたわけではなく、角の直前で速度を緩め、軽くぶつかっ
て会話のきっかけにする予定だったのだが……ちょうどその時、足元につまずいた。
 咄嗟に身をかわした七夕の脇を擦り抜けて、哀れ陽香は校舎の壁に激突したのである。
「あいたぁっ! ……つぅ」
 額をしたたかに打って、出来た瘤を涙目でさすっていると、頭上から男の子の手が差し
伸べられた。
「おい、凄ぇ勢いでブツかったみてぇだけど……大丈夫かよ」
 その時の陽香の顔こそ見物だったろう。羞恥と緊張と混乱で、物凄いことになっていた
に違いないんだから。
 曖昧に手を出した陽香の掌を、七夕はしっかりと握って起き上がらせてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「そそっかしい奴だな。俺は一組の獅条ってもんだけど、あんたは?」
 七夕はぶっきらぼうに問うた。彼の中で、陽香の存在はすでに忘却の彼方らしかった。
 絶対忘れているだろうなとは思っていたけれど……ちょっとだけ哀しかった。
「ぁ……その。二年二組、深雲陽香……です」
「げっ、先輩だったのかよ。ありゃあ……いきなりタメ口利いちまって、すんません」
 ぺこり、と七夕は軽く頭を下げた。
「いえ、いいんです。私に敬語なんて使わないで、獅条くん」
 ようやく落ち着きを取り戻した陽香は、微笑んでそう言った。(このときはまだ、獅条
くんと苗字で呼んでいた。その後、あらかじめ調査済みだった「二年に姉がいる」という
話に持ち込んで、紛らわしいから名前で呼んでもいいという許可を得たのである。密やか
にガッツポーズを決めたものだ)
「そうか? じゃあ普通に話すけど」
「えぇ。折角こうして話をする機会を得たことですし、友達になりましょう」
 本来の予定とは違ってしまったが、さっそく本題に入った陽香。予定外の事態のせいで
言うべき台詞をど忘れしていたため、かなり唐突な話の持っていき方になってしまった。
 入学早々突然先輩が突撃してくるというあんまりな出会いだったにも関わらず、七夕は
快く了承してくれた。友達という言葉に、軽い感動を覚えているようでさえあった。
「友達、ね。変な奴だな、先輩は。まぁ……俺なんかでよかったら、いくらでもなるぜ。
 じゃあ改めて。よろしくな、先輩」
 照れくさそうに頬を染めて、七夕は右手を差し出したのである。
 何と言うか、胸がきゅんと締め付けられる思いだった。
 その場でぎゅ――っと抱きしめたい強烈な衝動に駆られたことを、陽香はまるで一秒前
に起こったことのように思い出すことができる。


「あの……先輩? 私、そういう趣味はちょっと……」
 白昼夢から現実に帰還を果たした陽香は、抱擁した腕の中で複雑な表情をしている九葉
にようやく気づいて、腕の力を緩め彼女を解放した。
「あぁもう……可愛いなぁ」
 未だ妄想から覚めやらぬ陽香の呟きを聞きとめた九葉は、身の危険を感じたのか青褪め
て後退したものだ。
 そんな九葉の様子には気づきもせずに、改めて鍋に向かい合った陽香。
 雑炊を匙で小皿に移し変えて味見をする。
「うん、いい味」
「えー……?」
 そんな馬鹿な、と九葉の眼が言っていた。
「何ですかその懐疑の視線は。疑うなら一口味を見てからにして欲しいですね」
 自信作を貶められた陽香はぷんすかと憤慨し、ほらっとばかりに小皿を差し出した。
 ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐る雑炊を口に入れる九葉。途端に顔色が悪くなった。
「うえ……まず」
 仮にも年上の先輩に向かって、率直に感想を口にした九葉。彼女は急いで井戸から水を
汲んで、それはもう丹念に口の中をゆすぎ始めたのである。この野郎と陽香は思った。
「そんなぁ、美味しいですよ?」
 もう一度味見をしてみた陽香だったが、やはり自分の舌には美味しく感じる。
 不味いです不味いです、先輩の舌は狂っていますと九葉は訴えた。
 両者の意見が平行線だと悟ると、九葉は新たな味見人を召喚すべく「八斗、ちょっとき
て」と、どこへともなく呼びつけた。
 すぐに返事は返ってきた。どうやら台所のすぐ外で待機していたらしい少年は、まるで
飼い主に呼ばれた子犬のように、妹の下へと馳せ参じたのである。


「美味しい!」
 味見をした八斗の第一声がそれだった。彼は、こんなに美味しいものを食べたのは久し
ぶりですと感激しきりの様子だった。九葉の思惑とは裏腹に味方を得た陽香は「ほらあ、
そうでしょう」と胸を張ったのである。
「……八斗の舌はおかしい」
 九葉は呆れたように首を振る。
 果たしてどちらの味覚がおかしいのか、僅か三名による多数決では結局確定することは
できなかった。


 あと一人くらい、意見を聞いてみなくては。それは、料理美味しい派、不味い派に共通
した見解であった。だから七夕の治癒が一段落して、見舞いの許可を告げに来た恭二が次
の実験台になるのは、ごく自然な成り行きだったといえよう。
「ふむ……」
 一口雑炊を咀嚼するや、黒衣の凶相は懊悩するように瞑目し、黙り込んでしまう。
「確かに独特の味付けかもしれん。これは鶏肉かな、柔らかく煮えているが……かなり甘
味が強いな。八斗が好みそうな味ではあるが、万人向けとはいえまい」
 だが、と一拍置いて、
「個人的な感想を言わせてもらうなら、悪くない味だ。七夕もきっと喜ぼう」
 恭二は、ごちそうさま、と低い声で言って、小皿を返した。
 物凄く怖いけれど、陽香に向かって微笑んだ……のかもしれない。
 獅条恭二。凶悪な見た目に反して、存外にいい人なのかも知れなかった。
 安心した。本当のことを白状すると、病気の後遺症で味覚がおかしくなってしまったん
じゃないかと、心配していたのだ。この分なら味音痴なのは九葉の方で、陽香の舌は正常
に機能しているようだった。
「君は、深雲陽香さん……だったね」
「はい」
 恭二に話しかけられて、酷く緊張してしまう陽香。真正面に立たれると、非常に威圧感
のある人なのだ。本人は優しい声色で話しているつもりなのだろうが、逆に不気味ですな
んて言える筈もない。
「世界には、人の願いを叶える因子があるのを知っているかね」
 一体、何の話だろう。
「人の想いに反応し、指向性を持つエネルギー。『それ』は、世界の意思といってもいい
ものだ。イワトに数多存在する能力者は、これを使って様々な奇跡を実現する。
 大別して善性のものを『魔力』『霊気』などといい、やや悪性のものを『妖気』と呼ぶ。
 より悪性のモノもあるのだが……まぁ、今は捨て置くとしよう。
 これは通常一般人には扱えぬ代物だが、強い想いであればその限りではない。
 巫女でなくとも、必死の祈祷が神に通じたという逸話はわりとよくある話だ。古来、百
度参りや生贄の風習が生まれたのは、それなりの効果があったからだろう。
 同様に、呪術師によらぬ呪いが効果を及ぼすのは、思い込みからばかりではない」
 長弁舌の意図が理解できず、疑問の視線を向ける陽香に、恭二は片目を瞑って微笑した。
 この仕草はもしかすると……いや、言うまい。
「純粋で強い想いは、ときに信じられぬ奇蹟を起こす。弟の手を握ってやってくれないか。
 君の想いならば、私の術などよりもよほど効果がありそうだ」


 陽香は、はいと元気よく頷いて、踵を返した。台所の出口で一度だけ振り返り――
「でも、おじさま? 私はもう、そんなことは……とうに知っていますよ」
 一言だけ告げて、愛する人の下へと歩き出した。


 陽香の病気が治ったのは、病院の治療が効いたわけじゃない。役立たずで無能な医術師
は、もう治らない、貴方は死にますとはっきり言ったのだから。
 病気が完治したのはいみじくも恭二が言ったとおり、正しく奇蹟でしかないのだ。
 一年前……病気が治ったら『外の世界』に連れて行ってくれると彼は約束してくれたか
ら。約束を守ってもらうために、陽香はまだ死んでしまうわけにはいかなかった。
 彼ともっと一緒に過ごしたかった。話をしたかった。生きていたかった。
 だから、もう諦めるのはやめたのだ。絶対に病気になんて負けてやるもんかと誓った。
 強く純粋な想いが奇蹟を起こすのだというのなら。
 今、自分がこうして生きているのはすべて……彼のおかげに違いない。


 恭二から聞いたとおりにしばし歩き、陽香は七夕が寝かされている和室へとたどり着い
た。屋敷は広く複雑で、口頭説明だけでは迷うほどだったのだが、陽香はまったく迷わな
かった。不思議となんとなく、七夕のいるところが感覚で分かる気がするのだ。
 愛の力なのですと陽香は一人納得する。
 七夕は、広い部屋の中心に敷かれた布団で眠っていた。険のある三白眼を閉じると、彼
の顔は年齢よりも幼く見える。安らかな寝顔を見ていると、母性本能がぴりぴり刺激され
て、優しい気持ちになってくる。また一つ、好きなところが増えてしまった。
「こんばんは、七夕くん……」
 布団の横に行儀よく座した制服の少女は、眠る少年の頬をさわりと撫でる。
 その行為は、さながら神聖な儀式であるかような敬虔さと慈愛に満ちていた。
 すでに日は落ちて、室内は枕元の灯りだけで薄暗く照らされている。頬を愛撫していた
掌は、滑るように掛け布団の中を這い進み、彼の手をそろりと握り締めた。
「早くよくなってくださいね……」
 少年の掌を持ち上げて、頬を摺り寄せる陽香。
 恭二の話では傷はもう塞がっているので、あと数時間もすれば目覚めるという話だが…
…それでも陽香は心配だった。彼をこんな目に遭わせたあの女を、許せないと思う。
「――でも」
 きっと彼女は今夜にでも退治される。獅条九葉の手によってかもしれないし、止めを刺
すのは他の誰かであるかもしれない。ともすると、それは目を覚ました獅条七夕であるか
もしれなかった。
 ともかく。それで気が滅入るような事件は解決し、晴れて週末には二人で『外』に出掛
けることができるのだ。
 まだ気を緩めてはいけないと分かっていても、逸る気持ちを、踊る心を抑えられない。
 出来ることなら、彼には妖怪退治なんて危ない仕事は陽香のためにも、もう辞めて欲し
い。こんな狭い世界なんて抜け出して、二人きりで暮すことが出来たら――どんなにか素
晴らしいだろう。
 まだ自分の想いすらも告げていないのにと、自分で自分に苦笑してしまう。そういう話
はもう少し二人の関係が進展してから、じっくりと説得していこう。
 そう、じっくりと……。
 この週末は、深雲陽香にとって生涯最高の想い出になるに違いない。
 薄い闇の中、陽香は陶然と七夕の顔を見詰め、しっとりと汗ばむ掌をずっと握っていた。