獅条の最終目的は、世界に蔓延る瘴気の源たる『鬼』を完全に滅し、イワトと現世を隔
絶している封滅結界を解除することにある。
 不滅の肉体を持つ鬼を滅ぼすために、獅条は代々様々な妖魔の血脈を取り入れて子孫の
強化を推し進めて来たのだ。
 結果、高度に『滅び』と適応し、強大な妖力を操り、鬼に損傷を負わせるほどの素養を
持つ能力者を生み出すに至ったのである。
 そうして素質と適正を見込まれた『彼ら』は、自分の意思にかかわらず生家である分家
より離れ、新しい名と、最も鬼に近しく、鬼を倒し得る者どもという意味を持つ――獅条
の姓を与えられた。


 獅条姓を持つ九人の兄弟たちは、だから同じ親から生まれた兄弟ではない。


 特に末の二人は、生まれながらにして最高の素質を持っていたという。
 始祖の血を濃く受け継いだ両親から生まれた少女、獅条九葉が近親配合(インブリード)の最高傑作であ
るのなら。彼女と対を成す少年は、好相性配合(ニックス)の結果誕生してしまった忌子であろう。
 吸血鬼と鬼蜘蛛を両親に持つ――その少年の名は、縺楽夜兎といった。


 場面は再び、校庭へと移り変わる。
 八斗の手には、いましも己が胸から引き抜いた霊楔があった。
 九葉の力を抑制していたものと同じこの霊楔は、妖力、膂力の封印のみならず様々に応
用が利く万能の封印具である。
 八斗は普段この霊楔を自分自身に刺して、とある封印を施していたのだが。
 封印が解除されたにも関わらず、彼の妖力はさほど向上していない。
 九葉の封印維持に使用していた妖力が、霊楔十本分戻ってきただけだ。
 かといって、細身の矮躯に強靭な膂力が宿ったわけでもないし、使用可能な術式が増え
たわけでもない。
 依然八斗は獅条の中でも最弱の部類に入る、脆弱な後衛術師でしかなかった。
 それでは、彼に施されていた封印とはいかなるものであったのか。
 ……彼の表情を見れば、それは一目瞭然だった。


 普段の彼ならば絶対に浮かべることのない、禍々しい嘲りを顔面一杯に貼り付けて、八
斗は押し殺した哄笑をくつくつと漏らしている。
 邪悪に歪んだ口元から覗く鋭い犬歯は、紛うことなき人を喰らい殺すために発達した牙。
「八斗……どうして……」
「フフ。痛そうだね、九葉?」
 兄を虚ろな瞳で見詰める九葉に、八斗はがらりと変貌した口調で語りかける。
「けれどオマエが悪いんだよ? 僕に断りもなく命を賭けるようなことをするからさ。
 困るんだよね、勝手な真似をしてくれると。オマエが僕以外の奴に殺されるなんて、万
が一にもあっちゃならないのに。その辺さァ、どうして分かってくれないかな?」
「ふざけないで……! 八斗、早くこの針を抜きなさい……」
 普段の八斗なら、これですぐさま針を抜いたろう。だが、今の彼は九葉の言葉などまる
で意にも介さなかった。
「ははっ、嫌だね。オマエはそこで寝てろ。代りに、こいつは僕が片付けてやるよ」
 今更言うまでもなく、操は八斗よりも遥かに強力だ。速度で九葉を圧倒した操の姿を見
ていないわけはないのに、彼は自信たっぷりにそう言った。
「あァ、九葉の言いたいことは分かってるさ。この女は、自分の手でブチ殺したいって言
うんだろう? よぉく分かってるとも」
 獅条八斗はにっこりと、まるで天使みたいに微笑んで。
 妹に言い聞かせるように、いつもどおりの優しい口調で告げた。


「大丈夫、安心して――――殺したりはしないから(、、、、、、、、、、)


 深い驚愕の相を刻んだまま、九葉は地に倒れ伏した。いかに強大な鬼の力を振るおうと、
彼女の頸を貫いた針は九葉を制御するためだけに磨き上げた妖針の秘技である。
 抗うことも出来ずたちまち全身の力を抜き取られ、深い眠りについてしまった。
 獅条八斗は、獅条九葉の天敵なのだ。


 八斗は倒れた九葉へと無造作に歩み寄り、片手で制服の襟を掴んで持ち上げた。獅条の
中では弱くとも、半妖である八斗の膂力は常人を凌駕する。
「……」
 目の前にはすでに先ほどの戦闘体制を解いて、様子を見るように死魚の瞳を向けてくる
操の姿があった。すぐさま襲い掛かってくるかと思いきやそんなこともなく……どことな
く非難しているような気配がある。
「あぁ、なるほど……もしかして決着を邪魔されて怒ってる? はは、そんな様でも犬神
ってのはくだらないことに執着するんだね」
 どうやら犬神操の意識が若干強く出ているらしい。
(哀れなもんだ……犬神の後継者もこうなっちゃおしまいか)
 八斗は操を見下すように一瞥するや、一転して親しげに話しかけた。
 まるで同胞に語りかけるような気安さで。
「なぁ食人鬼。僕はさ、オマエの気持ちは分からなくもないんだ。
 胸から湧き上がる本能のままに、思うさまに血肉を貪る……それが僕らのあるべき姿だ
もんな。分かるよ。何も我慢することはない、喰いたいなら幾らでも喰えばいい」
 九葉の肢体から未だ滴り落ちる紅血を、八斗の舌がゆっくりと丁寧に舐めとって嚥下す
る。妹の首筋に舌を這わせながら、美貌の少年は恍惚の表情を浮かべていた。


「狂おしく甘い……こんなに美味いものを我慢しろなんて……酷すぎると思うだろ?
 極上の肉を前にして、毎日毎日おあずけされている自分が哀れで滑稽でしょうがないよ。
 ……まぁ、それも仕方がないことさ。忌々しいが、獅条の掟は絶対だ。妹を貪り喰らっ
たりしたら、おっかない一流(ババァ)にブッ殺されてしまうから。
 好物を食えないのは無念だけど、まだ死にたくないし。だから僕はいつも――自分で自
分に封印を施して、食人の衝動と一緒に本来の自分を押し殺してるってわけだ。
 そこへいくとオマエは凄いよ。いくら喰わなきゃ飢え死ぬからって、百鬼の目を潜り抜
けて、もう八人も喰らってる。あァ、大したもんだ」
 八斗は九葉を優しく地面に横たえると、おもむろに霊楔を顔の前に掲げ、一舐めした。
「けどさ、オマエ九葉を泣かせたね?」
 瞬間、八斗の気配が一変した。おどけた雰囲気は微塵も残さず掻き消え、眇められた双
眸からは殺意をより粘着質にしたような、おぞましい何かが強烈に放射されていた。


「こいつを痛めつけて、泣き顔を鑑賞していいのは僕だけなんだよ……! 九葉を嬲って
悲鳴を上げさせていいのは僕だけなんだよ……! 分相応に見苦しく逃げ回っていりゃあ
いいものを、たかが蜘蛛が混じった駄犬の分際で――随分と調子に乗ってくれたじゃあな
いか。……おかげでいたくムカついたぞ、僕は。とても許しちゃおけないな。
 この償い――身体で支払ってもらおうか」


 言うや否や、操の身体に蜘蛛糸が絡みついた。操の周りで怯えていた大蜘蛛たちが、突
如主を裏切って、操に一斉に粘糸を発射したのである。
 完全に不意を突かれた操は、さすがにこれをかわすことは出来なかった。
 妖蜘蛛の血を色濃く継いでいる八斗は、下級の蜘蛛など視線を合わせるだけで自分の眷
属に引き込める。
 蜘蛛の使い魔を何匹揃えようと、縺楽の前には逆効果にしかならない。
「まるでなってないよ、オマエ。本当に蜘蛛の変異なのか? この程度の眼力で、使い魔
の支配権を奪われてどうするよ?」
「ぐ……」
 酸性の毒がたっぷり染み込んだ糸は、じゅうじゅうと音を立てて女の素肌を焼いていく。
 苦悶に歪んだ少女の顔を、八斗は名画を愛でる鑑賞者の如く見詰めている。
 これで少しは溜飲が下がったというものだ。
「だが、足りないな。まったく足りない。
 もっといい声で鳴いてくれないと、つまらないだろう?」
「うああああああッ!?」
 操の絶叫が轟いた。八斗が細長い妖針を飛ばして、操の胸に突き刺したのである。


「ははッ、いい感じじゃないか。痛いだろう? この上なく痛いだろう?
 縺楽式妖針術は、痛覚支配が極意でね。僕の針に掛かれば、大怪我を無痛にすることも、
掠り傷に激痛を加えることもお手の物というわけだ。なぁ、素晴らしいと思わないか?
 オマエの痛覚は覚醒された。以降、オマエが受けた痛みは全て――数倍に増幅されて、
その身体を焼き尽くす。
 人を救う医療術式が、残虐なる拷問術に変貌する様式美。どうかな犬神? この芸術を、
その身をもって感じているか?」
 最早本性を隠そうともせず、八斗は得意絶頂の笑顔で高らかに哄笑した。


 しかし激痛に叫び狂っていた操は、さすがに月下の変異獣人だけのことはあった。
 身体を思い切り暴れさせて、強引に蜘蛛糸を引き千切ったのである。こうなってしまっ
ては、実力で圧倒的に劣る八斗に勝ち目はなくなったものと思われたが――
 八斗の顔面には嗜虐の表情がこびり付いたまま、焦りの色はない。
 弱者には弱者なりの戦い方というものがある。狡猾に罠を張り、手段を選ばず敵戦力を
削ぎ落す……七夕がやっていることを、よりえげつなく実行すればいいだけだ。
 敵が自分よりも遥かに強いのならば。そう、弱くなってもらえばいい。見る影もなく。
『獅条八斗』には思いつかないような方法で。


 狂乱する操は八斗を目掛けて真っ直ぐに飛び掛ってきた。目にも留まらぬ速さだろうと、
これでは狙い撃ってくれといわんばかりである。
 慌てず騒がず、八斗は手に持っていた霊楔を投擲した。霊楔は振り上げられた右腕に突
き刺さったものの、それで突進速度が緩むわけでもない。
 操は構わず爪を振り下ろ――せなかった。
 爪撃の途中で力を失い、右腕はだらりと垂れ下がったまま動かなくなった。ならばと左
腕を繰り出した操だが、これも無為に終わる。八斗の足元にはすでに妖針の円陣が組まれ
ており、陣から紡ぎ出された光糸の結界が操の爪を防いでのけたのである。
「縺楽式蛛糸結界、妖針防御陣(ようしんぼうぎょじん)……って、おいおい」
 さらなる剛力を左腕に込めた操は、裂帛の気勢で八斗の結界を打ち破った。だがその時
にはすでに、投じられた三本の霊楔が操の左腕、左足、右脇腹を貫いていた。
 激痛は数倍に増幅され、灼熱と化して脊髄を奔り抜ける。
 苦惨な呻き声を漏らした操は、ふらふらと力なくたたらを踏んだ。
「はは。嫌だね、馬鹿力は」
 八斗の攻撃は、対象に何ら損傷を与えない。何十発、何百発撃ち込もうと操には傷一つ
付けられない。元々が医療術式である妖針術は、原則として患者に傷痕を残しはしないの
だから。
 だが……妖針を受ける度に痛覚はさらに鋭敏になり、霊楔を受ければまるで鉄球に繋が
れたように身体が重くなる。加えて針や霊楔の一本一本が、倍化された痛覚によって地獄
の痛みを付加されているのである。
 苦痛の後にはさらなる苦痛を。さらなる苦痛の後にはそれに倍する苦痛を――
 敵を殺すようなことはせず……唯々、惨たらしい苦痛のみを積み重ねてゆく。苦悶の喘
ぎも、魂消るような絶叫も、すべては彼を愉しませる楽曲の調べに過ぎない。
 捕らえた獲物を嬲り尽くす、鬼蜘蛛の名に相応しい所業であった。


 四肢のうち、すでに三本は封じた。それでも操は残る右足を使って攻めてくる。
 操は片足で地を蹴って、顎をがばりと開いて突進してきた。両爪を封じても、まだ彼女
には最強の武器である牙が残っているのだ。
 五体満足だった時とは比べるべくもない遅さだが、それでも八斗の目に捉えられる速度
ではなく、辛うじてかわすのがやっとだった。牙に掠められた腕から鮮血が迸る。
「活きがいいね、どうも」
 すぐさま腕に針を刺し、応急処置を施した。妖針は本来の用途に従って、速やかに腕の
痛覚を取り除いて止血する。


「痛みに泣き叫ぶのはオマエだけでいい、お裾分けは謹んで辞退させて頂くよ」
 八斗は振り返りざまに妖針を乱れ撃った。蜘蛛の脚と同数の、実に八本同時投擲――縺
楽で身に付けた暗器術は、未だ錆付いてはいない。
 すでに再度の突進を敢行していた標的へ、針の群れはカウンター気味に突き刺さってい
く。手負いの操にはもう単一の攻め手しか残されていない。後の先を取るのはそれほど難
しい仕事ではなかった。
 当然、八本もの妖針を一度に受けた操は激痛にのたうち回るに違いない。そう確信し、
勝ち誇ったように鼻を鳴らした八斗は、驚愕に目を見開いた。
 操は突進の勢いをまったく緩めなかったのだ。
 痛みを感じていない筈はないのに――まるで神風特攻だった。
「ガァアアアアアッ!」
「……!?」
 殺意に満ちた咆哮は、一瞬にして八斗の精神に死の恐怖を刻み付けたが……結論として、
必殺の牙が八斗の顔面を噛み砕くことはなかった。
 操の牙は標的まで届かず、突如割り込むように飛び込んできた大蜘蛛を身代わりに噛み
千切ったのである。
 紫色の体液が飛び散って、八斗の頬に付着する。顔が汚れたのが気に入らないのか、彼
は不愉快そうに目を細めた。
「やってくれたね……ケダモノが」
 八斗は怒りも露に、両手から一本ずつ霊楔を出現させた。ナイフのように突き立てられ
た霊楔は、操の胸と肩を深々と抉って傷痕を残さず埋没する。無論、痛覚を極限まで倍化
されている操に尋常でない激痛を与えながら。
「ぅぅ……っ」
 最早悲鳴も弱々しい。操は背後からさらに襲い掛かる粘糸をなんとかかわしたものの、
ようやく敵わないと悟ったのか、片足を引き摺りながら校舎の中に逃げ出した。
 その姿があまりにも無様すぎて、八斗は声を立てて笑ってしまう。笑い出したら止まら
なくなった。少女じみた美貌を醜悪に歪め、腹を抱えて蹲る。
 蒼く光る巣の中で、鬼蜘蛛は朗々と甲高く、夜闇に狂笑を響かせた。


 笑いながら、八斗は悠然と校舎の中に足を踏み入れる。
 馬鹿な奴……どこへ逃げようと無駄なことだ。何故なら、この学校はすでに鬼蜘蛛の巣
と化している。蛛糸の結界に覆われた敷地内からは、何人たりとも外に出ることを許され
ない。哀れに逃げ惑う操は、蜘蛛の巣に捕らえられ、もがき苦しむ蝶同然だった。


 芳醇に薫る血臭を手がかりに、八斗は薄暗い廊下を歩いていく。操自身は無傷でも、そ
の爪にはべったりと、九葉の甘い血がこびり付いている。
 遮蔽物の多い校舎内ならば勝機があるとでも踏んだのか……いや、そんな知性が残って
いるとは思えない。
 撃ち込んだ封印はすでに六本。九葉との戦力差から概算すると、もう操は八斗以下の身
体能力に成り下がっていると見ていい。七本目、決定的な霊楔を撃ち込んでやれば少しは
大人しくなるだろう。その後は……お愉しみだ。あの桃夭(とうよう)とした腿肉に喰らい付いて、思
うさま血肉を啜ってやる。八斗は溢れる垂涎を飲み込んで、如何わしく喉を鳴らした。


 九葉が排出した瘴気に侵されて、校舎の大気は黒く淀んでいる。
 八斗の支配下にある蜘蛛たちが、ぞろぞろと廊下を馳せていく。さっそく獲物を見つけ
たのか、糸を発射する汚らわしい音が束となって聞こえてきた。
 やがてたどり着いた三階の廊下で、犬神操は蜘蛛の群れに襲われていた。あれほどの敏
捷さを誇っていた彼女は、いまや下賎な妖魔にすら追い縋られ、纏わり付く糸を必死で振
り解こうと滑稽な糸傀儡のようにもがき喘いでいる。
 最高の見世物だったが、惜しむらくは彼女が正気を失っていることか。命乞いの一つで
もしてくれれば、なお面白い余興になったものを。


「あァ、それはもういいや。次の出し物にいこうか」
 八斗は蜘蛛たちに新たな命を下し、廊下に巨大な巣を張らせ、そこに操を磔にさせた。
「唸るばかりだな、オマエ。何か喋ってみろよ、ほら」
 止めとなる七本目の霊楔。胸の中心を穿たれても、もう操は悲鳴すらも上げなかった。
 ぐったりと頭を垂れて、死んだように動かない。
「おいおい……これからだっていうのに、オマエがそんなんじゃあ興醒めじゃないか」
 少女の腹に手を添えた八斗は、優しい手付きで少女の素肌を摩っていく。
 こんな微弱な刺激でも、今の彼女は耐え難い激痛として感じている筈だった。
 嗜虐の愛撫は、上へ上へとゆっくり進行する。頬へと到達した瞬間、思い切り爪を立て
て、頬に紅い裂傷を刻んでやった。すると……
「……が、とう……」
「何だって? もう一度言ってみろよ」
 操が今、何か意味のある言葉を呟いたような気がして、八斗は吐息がかかるほどに顔を
寄せた。
「……ありがとうございます……とても参考になりました……」
「何?」
 この女、何を言っている?
 首を傾げて訝る八斗。狂人の戯言と聞き流すのは容易かった。だが……
「これが縺楽……これが鬼蜘蛛。ふふ……本当、見ると聞くとでは大違い。
 綺麗で残酷な食人鬼さん、今宵の宴は愉しませて頂きましたよ」
 明らかに犬神操のものではない口調で、犬神操の口が喋っていた。
「オマエ…………誰だッ!」
 犬神操は食人鬼などではなく……先の腐犬と同じ、傀儡でしかなかった。
 その事実に気付いた時にはすでに、背後から忍び寄っていた黒い糸が、少年の総身を淫
らに絡み取っていた。