幻影の炎が消えて、火傷一つない身体が崩れ落ちる。
意識を失った彼女をしっかりと受け止めて、掻き抱いた。
たとえまだ妖怪になりきっていないのだとしても、この人は沢山の命を喰い殺した。
そしてこれからも、生きている限り喰らい続けるだろう。
あまりに罪は深すぎて、購うことなんて出来やしない。
許すことは出来なかった。生かしておくわけにはいかなかった。
世界の法も、獅条の法も、そして獅条七夕の信念も――深雲陽香を殺せと叫んでいる。
「だけど……それでも」
――殺すことなんて、できなかった。
親友は最後に、先輩を頼むと言い遺した。
優しすぎるあいつは、こんな結末を望んじゃいなかった。
ただ……意識がなくなるその瞬間まで、彼女の幸せを願っていたんだ。
それなら。獅条七夕は必ず、深雲陽香を助けて見せよう。
おまえの信念、決して曲げるなと宿敵は言った。
その言葉に、あたりまえだと言い切った。
それなら――獅条七夕はどうしても、食人鬼を殺さなくてはいけない。
「まったく。一人一人違うこと言いやがって……しょうがねぇなぁ……」
両手が掴むのは一本の霊楔。彼女に刃を向けて、高く、振り翳した。
そう、こうなったら仕方がない。両方やってやろうではないか。
「じゃあな、先輩」
これで本当にお別れだ。この手を振り下ろせば……七夕の知っている深雲陽香は、大好
きな先輩は――この世界のどこからも消えてなくなる。
躊躇いはない。もう、決めたことだ。
棄てた想いが蘇る。
春の日に、友達になろうと笑った人のこと。
夏の日に、一緒に花火を眺めた夜のこと。
秋の日に、海を見に行こうと約束したこと。
冬の日に、糸の解れた手袋を嵌めて、大笑いしてやったこと。
彼女から貰った大切なものを、何もかも思い出した。
なんでもない日常の光景が、まるで綺羅星みたいに今も胸の中で輝いている。
もう二度と――絶対になくしたりはしない。
「俺もさ……あんたと会ったあの日から、ずっと楽しかったよ」
涙が零れた。ありがとう、と最後の言葉が掠れて消える。
――願わくば、この楔が彼女への罰になればいい。
振り下ろした腕の先で、深々と突き立てられた蒼い霊楔は、
彼女の罪と記憶を、硝子みたいに打ち砕いて消えていった。
涙を拭って、顔を上げる。まだ……やるべきことが残っているから。
「そこにいるんだろう、恭二」
「ああ」
答えは闇の中から返ってきた。低い、奈落の底から響いてくるような声が。
世界を隔絶する封滅結界すら越えてのける彼に、蛛糸結界など意味がない。
恭二の使い魔がずっと憑いていたことに気付いたのは、ついさっきだ。
心配性な兄のこと、どこかで様子を見ているだろうというのは簡単な推測だった。
糸に絡み取られていたあの時も、犬神操が動かなければ代りに恭二が助けに入ってくれ
ていた筈だ。
だが、事情が変わった。
今の彼は……獅条七夕と深雲陽香にとって、救いの主ではありえない。
廊下の先。薄闇が凝って密度を増して……やがて黒衣の形状を成してゆく。
獅条百鬼衆、第三位。闇遣いの獅条恭二がその姿を現したのである。
「――記憶を封じたか。それで、その後はどうする?」
「まだこの人は妖怪になり切っちゃいない。なら、人間に戻してやることだってできる筈
だろう。御薙の術にそういうものがあると、聞いたことがある」
恭二は重々しく頷き。射抜くような視線で七夕を眇め見た。
「然り。御薙秘伝の滅び落としならば、未完成の変異体を浄化せしめることもできよう。
だが、今更彼女を人に戻してなんとする? なるほど記憶を失えば、彼女の内から罪は
消えるだろう。罪を背負うにはまず、己の罪を自覚せねばならないのだから。
それでも……彼女の罪は、この私が覚えている。彼女の罪は、この世界が覚えている。
そして、誰より……」
恭二は片腕を顔の前に掲げ、闇を撫でるような仕草をした。すると……たちまち虚空に、
薄寒い白光を放つ人面が無数に浮かび上がってきたのである。
死者の霊魂を喚び出し使役する暗黒の妖術、屍霊遣いの秘術であった。
「彼女に喰い殺された人々が、怨嗟の叫びを上げている……。そこを退け、七夕。
私は死者の呪詛に応え。世界の理にしたがって、その少女を殺さねばならん」
七夕は立ち上がり、首を横に振った。
こうなることは分かっていた。立場が違えば、七夕だって恭二と同じことを言ったろう。
それでも、退くわけにはいかなかった。
「食人鬼に成り果てた深雲陽香は、たった今、俺が殺した。
俺の後ろで倒れている人は、もう殺されるべき人じゃない」
「……あるいはそうかもしれん。だがそれは、彼女を救ったところで、おまえが得るもの
は最早何もなくなったという意味でもある。記憶をなくしたその女は、以前の自分を殺し
たおまえを恨みこそすれ感謝などすまい。それでもなお、彼女を救うと?」
感謝なんていらない、そう言い切った。
「俺のことなんて忘れちまったっていい。恨んだっていいんだ。俺が覚えていれば――」
それで十分だから、と。
「その想いは報われない。たとえ深雲陽香の罪が許されたとしても、一度変異してしまっ
た以上『滅び』の蔓延るこの世界に留まれば、再び同じことが繰り返される。
もう彼女は、この世界に存在していていいモノではない。
彼女を生かそうというのなら、『外』に放逐する他にすべはなく……そうなれば二度と、
おまえと会うこともあるまいよ。
掟破りを犯し、獅条の誇りを捨て、自身の信念に背いてまで救っても……切れた絆は戻
らない。ならば、今ここで殺すのとどう違う。
私は一番最初に、御役目に私情を挟むなとそう教えた筈だ。以前のおまえならば聞き分
けただろうに……犬神にでも毒されたか」
その辛言は、弟を想うが故の言葉だった。
「――そうかもな。あいつらの考え方は、中々に酔狂で傑作だったよ。情に流されてクソ
意地張って、敵わないってのに諦めねぇ。無駄だってのに聞く耳なんか持ちゃしねえ。そ
んな暑苦しい馬鹿な連中だ、犬神ってのは」
そういえばこの状況は、犬神操に憑依した隻眼王と対峙した時とよく似ている。
掟に従って陽香を殺そうとしている恭二は、いわばあの時の七夕と同じだ。
停止の呪符を張り付けられて、もうどうしようもないと理解していて、それでも主を救
おうと……床を這いずり、足首を掴み、最後まで邪魔をした犬神の女がいた。
無様で滑稽で……どこまでも報われない愚かしさ。
だけど、そんな姿に七夕は――強く胸を打たれたのだ
「悪いな、兄貴。俺は絶対にこの人を助けると決めたんだ。
誰に何を言われようと聞く耳なんか持ってやらねえ。
掟も誇りも、そんなもんは知らねえ。無理だろうと何だろうとなぁ、諦めてなんか誰が
やるか。どうしても協力してもらうぜ、たとえあんたをブチのめしてでもだ」
「そうか」
恭二は苦悩するようにしばし眼を閉じる。
再び開いた彼の双眸は、ただ真っ直ぐに『敵』を見据えていた。
「ならば是非もない。おまえを打ち倒し、私は私の務めを果たそう。
そうまでしてその少女を救うというのなら……いいだろう、認めさせてみろ。
私と彼らに覚悟を示せ――」
犬神操、獅条八斗、獅条九葉、そして深雲陽香。
苛烈な四連戦を勝ち抜いてきた七夕だったが――最後に待っていたものは。
獅条七夕の十八年の生涯において、間違いなく最強の敵であった。
「陰」と。呪うような呟きから、暗黒のあやかしが行使される。
視界が闇で埋め尽くされ――廊下の薄闇が戻った時には、恭二の姿は跡形もなく消え失
せていた。
周囲で倒れていた奴等の姿も見あたらない。巻き込まぬよう場所を変えたのだろう。
幻術か、転移術か。どちらにしろ、やるべきことは変わらない。
鬼だろうが蛇だろうが、何が出ようと打ち倒すだけだと気を引き締めた七夕も『そいつ』
の姿を認めるや、さすがに凝然と目を見張るしかなかった。
「……よりにもよって、こいつかよ」
七夕の前に立ち塞がったのは、よく見知った顔だった。
獅条恭二が作り出す幻影は、単純な催眠暗示による幻などでは断じてない。
一度あやかしにかけられてしまえばもう、それは確固たる存在感を伴なった実体同然な
のだ。
「妖力なんざ殆ど残っちゃいないだろうに……どこまでも合理的なやり口だな、兄貴」
だからたった今、七夕の目前に現れた『獅条七夕』も、当然本物と同様の性能を持って
いる。
恐らくは数日前の獅条七夕を元に構築された、幻影の戦士。
無論、体力も妖力も全快状態であることは言うまでもない。
術者である恭二が消耗していても、召喚された幻影には何ら関係のないことである。
「俺に勝てないようじゃ、てめえの覚悟も所詮その程度ってことだ」
幻影は七夕と同じ声、同じ口調で笑ってみせる。
実にカンに触る野郎だ。特に目付きが気にいらない。まさか自分の笑顔がこんなにも挑
発効果のあるものだったとは、ついぞ知らなかった。
「言われるまでもねぇ」
二人の七夕は鏡写しのように、しかし非対称に呪符を構えた。
その挙措には一分の違いすらもない。
ただ一方だけは息を苦しそうに荒げた満身創痍の有様だった。元より病み上がりの身、
幾たびの連戦を経た今にあって、七夕の身体は限界に達しようとしていた。
七夕は深く深呼吸し、高速で戦略思考を展開する。
自己診断によると、肋骨が三本ほどやられている。胸や腹からの出血も笑えないことに
なってきた。こうなると九葉の馬鹿力と陽香の健啖ぶりが恨めしいところである。
まともに動けるのはおよそ五分が限界というところか。
さらに妖力も呪符も残り少ない。
現在三本起動させている霊楔。封印維持に割かれる妖力は微弱なものだが、複数本とな
るとこれが中々馬鹿にならない。じりじりと妖力が吸引されていく現象は、遅効性の毒に
も似た脅威である。こんな厄介なモノを常時十本も起動させているなら、普段の八斗がや
たら弱っちいのも得心がいくというものだ。
ともかく攻撃のヴァリエーションが今後かなり限られてしまう上に、偽者野郎が七夕の
戦術を知り尽くしているであろうこと加味すると――
「…………」
好材料を挙げてみよう。
ここ数日、不眠不休で働き続け、二十四時間以上もの間全力で治癒術を掛け続けていた
恭二。彼もまた、妖力、体力ともに底を突いているのは間違いない。
満身創痍の七夕と、疲労困憊だろう恭二。条件は同等だ。寧ろ、ベストコンディション
の恭二とやり合うことを思えば楽なものかもしれない。
状況は以上だ。
幸い前回の敗戦をきっかけに、恭二戦のシミュレーションは幾度となく繰り返してきた。
獅条恭二打倒の切り札は、ある。
だが、あれはまだ未完成だ。恭二に通用するのは一度きりだろう。どの道『時』の符術
使用によって激減した今の妖力では、一度使えばそれで弾切れである。……使いどころは
慎重に見極めなければならなかった。まず、恭二の姿を肉眼で捉えなければ話にならない。
「――作戦は決まったかよ?」
ヤツは、せせら笑うように言った。
「まぁな、作戦はこうだ。てめぇのむかつく顔面を粉々に爆破してやった後、痺れを切ら
して出てきた兄貴を、思いっ切りこの腕でブン殴る」
「いい作戦じゃねぇか。シンプルで分かり易いところが堪らなく俺好みだ。
いいぜ、やってみろよ獅条七夕。口先だけの道化で終わるなよ……!」
好戦的に一笑して、ヤツは軽やかに踊りかかってきた。
地を這うように低く疾く、虚を交えて、廊下の壁を蹴って鋭角な軌道で死角から切り込
んでくる。極めて悪質な攻め手――自分がやられてみるとよく分かる。獅条七夕の常套戦
術は、こんなにも悪辣かつえげつない。
「の、野郎……!」
前髪を『切り』裂いて、眼前を死が掠め過ぎていく。続く連撃は、肘か脚か。
刹那の閃きで廻し蹴りを先読みした七夕は最小の動きで回避し、偽物の隙を衝いて胴体
を『切』の呪符にて見事両断せしめた。
手応えの違和に慄然とする。
そう、この手口は……七夕自身が何度となく使ったものである。
真っ二つになった『幻』の呪符。幻体を身代わりに、偽物の本体はすでに七夕の頭上か
ら急襲を仕掛けており、その指先では灼熱の呪符が今正に起動しようとしていた。
「あばよ、粉々になりなッ!」
「ふざけろ……!」
七夕は迫る『炎』の呪符に向けて、片手の指に挟まれていた呪符を合わせた。際どく反
撃が間に合ったのは、予め己の得意符術『炎』に対抗すべく、ぬかりない戦略を練ってい
たからだ。
『炎』を『氷』が相殺する。灼熱と冷気が鬩ぎ合い、薄闇に赤と青のヴェールをかける。
迸る光幕の向こう側で、微かな着地音を聞き取った。
ヤツが数日前の七夕とまったく同じ性能だというなら、己を顧みれば次の攻め手も自然
と読めてくる。
今、ヤツが狙っているのは……確実に敵の命を終わらせる消耗戦である。すなわち、残
る呪符と妖力の限りを尽くした総攻撃に他ならない。
すでに満身相違、残る妖力呪符ともに僅か。
間違いなく、ヤツには必殺の確信があるだろう。この状況でアレに対抗できる戦術など、
数日前の自分には思い付かない。
だから七夕は。今の自分にしか出来ない方法で、過去の自分に立ち向かうことにした。
そう、この胸に刻み付けられた犬神流のド根性で――あんな冷血野郎は粉々にしてやれ
ばいい。
灼熱が氷を焼き尽くし、役目を終えて消え去っていく。決着の幕が上がった先で、ヤツ
は両手に大量の呪符の束を携えていた。
七夕は三枚一組の呪符のみを手に、何の小細工もなく走る。その様はさながら、戦車の
一群に竹槍で特攻をかける愚者のようでもあった。
クライマックスの愉悦に歪んでいたヤツの表情に、驚愕の相が刻まれる。
「てめえ……正気か!」
それが、過去の獅条七夕が抱いた、未来の自分への嘘偽りない感想だった。
隻眼王とやり合った時も、あの執念に苦戦させられ、また理解できぬと呆れたものだ。
それをまさか、自分で再現することになろうとは。
運命というものは度し難い――が、悪くない気分だ。
「さぁな、俺にもよく分からねえよ」
使うべき術式はあと二つ。底を突きかけている妖力でも、十分にこと足りる。
勝率など皆無だと分かっている。それなのに根拠のない確信があった。
これから使う術式は、間違いなく過去の自分を打ち倒すだろうと。
――必ず助けると、決めたから。
たった一つの願望に、己の全存在が収斂していく感覚。
強大なる力が、願望の中から殻を破って生まれ出ずるこの現象は――。
「……おまえ、まさか変異してるのか……?」
ヤツは慄くように呟いた。
「違う、そんなんじゃねえ。ただ――」
満ちる瘴気の中にあって、強い想いは滅びの力を励起させる。
人間を妖魔へ、妖魔をさらなる高位妖魔へと変貌させる悪性の力。
それも獅条にとっては、制御さえ誤らなければ最高のエネルギー源に他ならない。
ただの人間である深雲陽香が、その願望ゆえに隻眼王すらも凌駕したというのなら。
「――自分に負けたら、格好悪いだろうが」
彼女の想いを受け継いだ七夕が、以前の自分などに負けるわけがない。
「ははははは!」
ヤツは、何がおかしいのか哄笑した。犬神どもの生き様を見せ付けられた七夕と、同じ
ことを思ったのかもしれなかった。
「――は。そりゃあ、そうだ。さすがは俺だぜ、よく分かってんじゃねぇか」
それが、ヤツの最後の台詞。
七夕が持つ三枚の呪符に刻まれていたのは、すべて同じ文字であった。
三重に織り込まれた『火』の術式は『火炎』となって――過去の七夕が紡いでいた数多
の符術ごと、何もかもを飲み込んで焼き尽くした。
術式の核を潰したからか、幻術が解けて世界が一変する。一見するとどこも変わったよ
うに見えない廊下には、九葉、八斗、陽香、操らが再び倒れていた。
あやかしの解けた現実世界に最早七夕の偽者はおらず……真向かいに佇む黒衣は、言わ
ずもがな獅条恭二の痩躯であった。
「ほう……あれを突破するか。おまえの想い、それほどとはな」
あれほど苦労して幻術を破ったというのに、恭二は依然無傷のままである。彼にとって
は今の術も、七夕の符術一回分程度の負担でしかない。やろうと思えば七夕の幻影を同時
に十体以上召喚することだってできるだろう。
この理不尽極まりない妖術の冴えこそが、彼を百鬼三位たらしめている所以であった。
間合いは約六メートル。恭二がもう一度妖術を行使するのを阻める距離ではない。
最後の呪符を手に、七夕は真っ直ぐに駆け出した。
「さぁ兄貴、このままあんたをブチのめしたら、協力してくれるんだろうな」
恭二はやおら瞑目し、
「……認めさせてみろ、と言った」
開眼と同時に片腕を突き出した。屍霊遣いで喚びだした怨霊が、闇や瘴気と混ざり合い
ながら恭二の腕へと収束していく……
果たして次の一撃が、恭二と死者からの最終試練ということらしい。
「…………」
もう言うべきことは何もない。ただ全力で走り抜ける。
恭二の腕には、今や黒い蛇が絡み付いていた。
闇と瘴気で構成された影蛇に、死者の怨念が乗せられたモノ。想念が怨念を凌駕せねば、
如何なる術式も通用しまい。さればこそ、最後の試練に相応しいというのか。
「――――往け」
重苦しい声。恭二の合図を皮切りに、影蛇は射出された。顎を開き、紅い舌を蠢かせて。
呻くように謳う声は、死者が奏でる呪詛の調べだ。
蛇は獅条七夕を丸呑みにせんと、弾丸の速さで襲い来る。
食人鬼に喰らわれた人たちが、あの人を未だに許せないというのなら――
代わりに呪いを受け止めてやるのは、自分の役目だ。経文代わりに、思い切りキツいの
をお見舞いしてやろうじゃないか。
『石』
『皮』
『幻』
迎え撃つ術式は、『破幻』
「もしかすると、俺は間違ったことをしてるのかもしれない。
だけど…………譲るつもりはねぇっ!」
喰らい付く蛇を恐れることもなく、耳朶に鳴り響く呪詛を厭うこともなく、七夕は三枚
の呪符を掌底のように打ち込んだ。
その時流れた風音が、親友の微笑のように聴こえたのは、中々に気の利いた幻聴だった。
破幻の呪符を叩き込まれた黒い蛇は、身体中に白い罅を走らせて――怨霊諸共あっけな
く、粉々に砕け散って霧散した。
七夕の速度は緩まない。恭二との間合いは今や二メートルにまで縮まっている。
右の拳を握り締める。残る体力すべてを込めて。
獅条最高の妖術師たる恭二に、妖術戦を挑めば敗北は必定。獅条七夕が獅条恭二に勝利
するためには、己にアドヴァンテージがあるだろう肉弾戦に持ち込むしかなかった。
この間合いなら次の術は間に合わない。
後はただ、乾坤一擲の一撃を叩き付けるのみ――!
「うおおおおおおぉぉぉっ!」
吼えた。氷のように冷然と戦闘行動を遂行し、激昂することなどかつてなかった少年は、
この時初めて叫んでいた。
十分過ぎる助走を経て。何もかもを乗せた渾身の拳は――恭二の胸に深々と炸裂した。
「見――事」
かは、と。白木の杭を打ち込まれた吸血鬼のように吐血する恭二。下半身から力が抜け、
前のめりに体勢を崩す。
力尽き、倒れる音は一人のもの。最後の一撃が、ついに勝敗を決したのである。
「――だが、惜しかったな……私の、勝ちだ」
妖どもが繰り広げた熾烈な争いの果てに、立っていた者はただ一人。
暗黒の妖術のみならず、近接体術すらも極め切った魔人の姿であった。
*
少女は、薄暗い廊下で目を覚ました。
痛かった。腰の辺りに、まるで足を切断されたような激痛が残留している。
その矛盾した思考に違和を感じることもなく、苦痛に唇を噛み締める。
仰向けに寝ていた彼女は上体を起こして周囲を見渡し、白百合のような首を傾げた。
どこだろう、ここは? どうして、こんなところにいるのだろう?
「……ぁ……」
そして彼女は根本的な疑問に行き着いた。呆然と、両の手を眺める。
「私は……誰?」
「知る必要はない」
低く、怖い、陰鬱な口調。答えた声に顔を上げてみれば、彼女の前には鴉のように真黒
い服を着た男性が、まるで存在感を感じさせぬほど静かに、忽然と立っていたのである。
この人は、怖い人だ。一目で少女はそう判じた。
だって、こんなにも――冷たい眼をしている。
恐怖を抑え、「貴方は誰ですか」と、少女は問うた。
男の返答は先と同じ、知る必要はないという簡潔な一言。
「きみは、かつて罪を犯した。大きな罪だ……購いきれぬほどの」
「え……?」
罪は裁かれねばならないと、黒い男は言った。
でも、少女には分からなかった。男の言葉も、自分の罪も。だって、自分の名前すら分
からないのに――
分からないのに涙が出た。この湧き上がる悲哀と罪悪感は……何?
「覚えていないのだろう? 何も。それもまた……無残な罰といえような。
だが足りない。そんなものではまだ、死者の嘆きは消えはしない。因果応報の理に従う
ならば……きみに相応しい罰は一つしかあるまい」
す、と男は天を指差した。くらり、と何故か僅かな眩暈を感じる。
男の指に誘われるまま天井を見上げると、
「――――っ」
息を呑む。悲鳴を上げようにも声が出ない。それほどまでに、その光景は少女の恐怖を
喚起するものであったのか。
振り仰いだ先には天井などなかった。つい一瞬前まで廊下にいたはずの少女は、いつの
間にか無明の空間に座り込んでいた。
少女の、射竦められたように見開いた瞳には……闇に浮かぶ紅い双眸と、苦悶の呪詛を
叫ぶ無数の人面が映りこんでいたのだった。
男の姿は闇に溶けたように消え失せており、奈落のように昏い声だけが聞こえてくる。
「慙愧無念を残し滅びた、怨霊どもに告げる。……記憶を失い罪を忘れたこの少女を、未
だ恨むというならば――獅条恭二の名の下に復讐を許す。
己が仇を討たせてやろう。我が使い魔影蛇の顎もて、罪人を喰らい尽くすがいい……」
――そして大蛇は少女の身体を、一息に丸呑みにした。
あやかしが解けて、周囲に現実の光景が戻っていく。
「……食人鬼は滅び、人に戻った深雲陽香は『外』に放逐された。そしてもう二度と、お
まえと逢うことは叶わない……これでいいのだろう? 七夕」
紅い月華に、吸血鬼じみた黒衣はよく映えた。嘯く声からは、彼の心中を窺い知ること
は出来ない。
「いやはや。甘いものだな、私も」
恭二は自嘲を込めて嘆息し、倒れ伏す兄弟たちの元へと歩み始めた。
世界を騒がせた連続行方不明事件はこうして、ひとまずの解決を迎えたのである。

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