第三章 匣詰めの世界


 ――世界は死にかけているのです。
 と、彼女は言った。
「悪い病気にかかって、体の一部が膿んでしまったのなら――病んだ部分を切ってしまう
しかない。
 それはとても哀しいことだけど、そうしなければ体全部が死んでしまうのですから。…
…そうやって、悪くなって世界から切り捨てられた箇所に、私たちは住んでいるのですよ」
 でも、それなら病気だけをやっつけてしまえないものだろうか。
 人の身体にいらないところなんてないし、切るのはとても痛いだろう。
 切断面はずっとずっと痛み続けて、そう簡単に癒されるものじゃない。


 ――なら、きっと切られた世界だって。
 痛くて泣いているんじゃないかと思うのだ。


「……そうですね。それに、世界から切り離された部分は勿論病気だらけになってしまい
ます。とてもとても質の悪い――存在しているだけで世界を殺していく、病気の主がいる
から。だから、いつもこの小さな世界は壊れかけているのです」
 だったらなおさら。
 今からだって遅くはない。病気の元をやっつけてしまえば、元通りにくっつけてやるこ
とだって出来るんじゃないだろうか。
 鬼のお姫さまは賢い子ですね、と頭を撫でてくれた。
「だけどそれは駄目」
「どうして?」
 この小さな世界の外には、もっと大きな世界があるらしい。
 まだ行ったことはないけれど、沢山の人が住んでいて、とても楽しいところなのだとい
う。
 姫さまはとても強いのだから、そんな悪い病気なんて早くやっつけてしまえばいいのに。
 そういうと、お姫さまは目を伏せて。哀しそうに囁いた。
「七夕さん……その病気とはね」
 ――他ならぬ、私のことなのですよ、と。


  *


 雀の鳴き声が黎明を告げている。
 獅条七夕は胡乱な意識を覚醒させて目を開けた。
 ……何か、夢を見ていた気がする。きっと幼い頃の夢だ。
 一瞬前までは克明に覚えていたはずのそれも、目が覚めた瞬間から記憶の底に穴が開い
てしまったように、綺麗に流れ出て行ってしまう。
 まぁ、夢とはそういうものだ。
 夢の残滓が郷愁を香らせる。懐かしい思いを胸に抱いて、七夕は身体を起こした。


 七夕の私室は六畳間の和室。脱ぎ散らかした洋服やがらくたがあちこちに放置され放し
になっていて、雑然としている。
 縁側に通じているのは障子戸。隣室との境界には襖があるが、顔が通り抜けられるほど
の大穴が開いているため、本来の用途を果たしているとはいえなかった。


 その穴から、少女の顔が覗いていた。
 亜麻色の髪と大きな瞳の幼い容貌だが、当年とって十九歳。
 獅条家三女、六海(むつみ)である。
 彼女は隈の出来た徹夜明けの顔で、弟の部屋をぐるりと見回す。
 目が、合った。
「よう、おはよ」
 顔だけの姉は朝の挨拶なぞをする。
「あぁ。お互い眠そうだな、六海姉」
「まぁね。今丁度新作ゲームを攻略してるところでさ――」
 それで夜通し遊んでいた塩梅か。呆れ果てた話である。
 昨夜は弟が命がけで『御役目』を果たしていたというのに、この姉貴ときたら……
 彼女がハマっている『ゲーム』とやらは『外の世界』の遊び道具らしい。
 またぞろ、家族に甘い恭二あたりに買いに行かせたのだろう。
 恭二兄は『こちらの世界』と『あちらの世界』を行き来することが出来る稀有な人物な
のだが……世界でも最重要視されている秘術を使って、買いに行くのが遊び道具だ。
 使い方が激しく間違っていると思う。
 噂に聞く電気街(アキハバラ)とやらで、毎月のように長蛇の列に並ぶ黒衣の凶相――。
 ……とても想像がつかない。恐ろしすぎる光景をかぶりを振って打ち消して、とりあえ
ず七夕は着替えることにした。


  *


 イワトは、四方を森と海で囲われた八十平方キロメートル程の極めて狭く、特異な空間
である。
 元々あった世界から、数百年前に『あるもの』を封印するために、周囲の人里や妖怪す
らをも巻き込む形で、異空間に隔絶されたのだという。
 超広域封滅結界、『イワト』――それがこの世界の名前である。
 イメージで言えば、カット&ペーストではなくコピー&ペースト。
 かつてイワトがあった場所では、一つの里がまるごと滅びるという大規模な神隠しとし
て伝承にも残っているらしい。
 鏡面世界。並列世界。この際、呼び方はどうでもいいことである。
『滅び』の気が満ち満ちているこの世界では、本来の物理法則が歪んでいる。
 ありえないことがありえない。
 確率が歪曲している――とでもいおうか。
 月が禍々しく紅に染まり。
 人間は妖怪へと変貌し、誕生する赤子の数パーセントは特異能力を備えて生まれる。
 森林では時空の歪みが頻繁に発生し、異世界から邪悪な妖魔が溢れ出る。
『外』の世界では百年に一度の偶然が、イワトでは日常のように起こってしまうのだ。
 獅条家は、そんな滅びつつある世界を管理する『御役目』を負う家というわけだ。
 そういうと聞こえはいいが、実際は汚れ仕事ばかりの裏方役である。


 イワトはそんな成り立ちを持つ世界であるから、文化も『外』とは趣を異にしている。
 世界から切り離された離島に等しいイワトでは、文明の進歩が『外』よりも遙かに遅い。
 ただ、恭二のような一部の能力者によって『外』との交流も僅かながらにあるため、文
明開化時代の日本よりもさらに酷い、近代と古代、科学と神秘が混在する錯綜した文化が
形成されている。
 世界を南北で両断して走る路面電車を境界として、北を新市街、南を旧市街もしくは
『里』などと呼称する。
 新市街は『外』の文明の影響が強い、昭和時代さながらの街並みである。家屋は木製だ
がきちんとブロック塀で囲われていて、道はアスファルトで舗装されている。
 学校などの施設もこちら側にあり、鉄筋コンクリート製である。ただ電気は一般家庭に
は殆ど普及しておらず、明かりには行灯や提灯の他、夜光石と呼ばれる暗いところで光る
石を使っている。
 対して旧市街では科学の恩寵を受けない旧態依然とした街並みで、道も土が剥き出しに
なっている箇所が多い。


 新市街にほど近い旧市街の一角に、獅条七夕は住んでいた。
 獅条の家は広い武家屋敷で、九人の兄弟が一つ屋根の下で暮らしている。
 訓練場にも使われている殺風景な庭を視界の端に、学生服を着込んだ七夕は玄関を急ぎ
出た。
 空は快晴。初夏の朝日は眩しくて、睡眠時間の足りない頭はくらりとしてしまうほど。
「大丈夫ですか、七夕にいさん。あまり眠れていないんでしょう?」
「そんなにヤワじゃねぇよ。気にすんな、八斗(やと)
 兄を気遣う弟の頭をくしゃくしゃとしてやる。
 七夕の前を歩く二人は、八斗と九葉(ここのは)
 名前に付く数字の通り、七夕の弟と妹である。
 七夕と同じ学校の夏服を着ている八斗は、一言でいうならば紅顔の美少年といった風体。
 見た目どおりの優しい奴だが、服装に気を付けないと性別を間違えられてしまうのが悩み
の種らしい。
 対して先ほどから沈黙を守っている妹は九葉。上から下まで黒尽くめの制服を着て、長
い黒髪は後方で一つに縛っている。可愛らしい顔立ちだが、表情に乏しいのが難点か。決
して無感情ではないのだが、あまり周囲に関心のない奴なのである。
 似た容貌の二人は学年が同じ一年なので、大抵いつも一緒にいる。傍から見れば恋仲に
見えなくもない。実際兄妹仲もいいのだろうが、七夕の感覚で言うならば互いを己の半身
のように扱っている節がある。
 見た目だけならば双子の天使じみている二人は、学内ではちょっとした有名カップルだ
ったりする。
 必定、三人で歩いていると一人だけ浮いた雰囲気になってしまうのだった。
 なので、獅条家高校組の登校風景はいつも、仲睦まじい兄妹の後ろを少し離れて七夕が
歩いていくという奇妙なものになる。
「今日のテスト、自信はある? 九葉」
「……うん。八斗は?」
「ばっちり。昨夜の御役目はにいさんが代わってくれたし、体調も万全だよ」
 一生懸命八斗が話しかけて、九葉がそれに一言二言だけ、ぼそりと返答する。そんな繰
り返しを微笑ましく見守るのも、そう悪くはないと七夕は思う。
 家から学校までは一キロほどの道程で、軽い上り坂だ。七夕の登校路となるこの坂は、
丁度新市街と旧市街を横断する架け橋的な位置にある。
 黄泉平坂(よもつひらさか)とは皮肉の利いた名称であろう。
 ここを全力疾走で十往復もすれば中々いい運動になるのだが。もちろん登校学生の行き
交うこんな時間に、必死こいて走っていたら変人の謗りは免れまい。
 だから物凄い勢いで横を走り抜けていった和装の馬鹿は断じて顔見知りなどではなく、
兄に見えたのは何かの間違いだと期待したいところであった。
 馬鹿はやおら立ち止まり、五条大橋に立ち塞がる武蔵坊弁慶のように天下の往来に陣取
った。
 豊かな黒髪を一つに縛り、腰には刀を提げている。身に纏う和装は獅条の退魔正装から
羽織鉢金を省略したもので、つまりは同族の証である。
 学生たちの奇異の視線を一身に集めている馬鹿は次兄、獅条漱四その人だった。
 長身の美丈夫は凛々しい笑みを浮かべ、手荷物を高く翳した。その不遜な態度のみなら
ず、危険な存在感を放つ腰の物が爽やかな朝の登校風景を台無しにし、殺伐とさせていた。
 戦慄して立ち止まる学生たち。
「七夕! 弁当を忘れておるぞ!」
「そこで名前を呼ぶんじゃねえよ馬鹿っ!」
 赤面して叫ぶ七夕。三年の獅条の兄貴は変人で、かつ危険人物だという認識が確立した
瞬間である。
 みんなの視線に哀れみの成分が含有され始めたのは気のせいではあるまい。
 前を歩いていたはずの八斗は九葉に袖を引かれて、いつの間にやら横道に退避している。
 抜け目ない餓鬼どもだが、おまえたちだけでもこの辱めから逃げてくれ。
 などと思うわけがなかった。
「八斗! 九葉! 兄貴が弁当持ってきてくれたってよ!」
 一人では抱えきれない羞恥を兄妹二人にも等しく分けて差し上げ、高校組は怒りの炎を
仲良く共有することになった。
「……漱四兄さん、外では話しかけないで」
 九葉が絶対零度の視線と共に放った痛恨の一言に、さすがの漱四もたたらを踏む。
 見た目が可愛らしい分、毒の威力もさらに倍加。傍から聞いている七夕ですら、背筋に
電流が奔るような錯覚を覚えた。
「こ、九葉……! 拙者の何がいけないのだ? 悪いところがあるのならば遠慮なく言う
てみよ、直すから」
「……生きてるところ」
「ぐぅぉぉぉぉ……」
 完膚なきまでに魂を砕かれた兄貴が膝を付く。切腹しかねない顔色だった。
 高等妖魔を容易く斬り伏せる剣の鬼も、怒れる妹には勝てるはずもない。
 九葉を敵に回すのは止めようと改めて誓った七夕である。


 死人と化した漱四を放置して、一向は先を行く。
 校舎までに一つある路面電車の停留所で、見知った人を見つけた七夕は目を剥いて驚い
た。その人が、ここにいるはずがなかったから。
 深雲(みくも)陽香(ようか)先輩。
 同じ学校に通う、一つ年上の先輩だった人。


「悪い、おまえら先に行ってろ」
「うん、分かったよ。行こう、九葉?」
 弟たちを先に行かせて、七夕は停留所へと近づいていった。
 もしかしたら見間違いかも知れない……。
 期待と不安が、胸を高鳴らせていた。
「深雲先輩」
 電車から降りてきたのは、やはり間違いなく深雲先輩その人だった。
「あら。久しぶり――ですね。七夕くん」
 日向の陽光にも似た、眩しい笑顔。柔らかく落ち着いた声。
 九葉と同じ黒い制服に、艶やかな黒の長髪。前髪は切り揃えられているが日本人形には
喩えられまい。無機質な人形に、こんな笑顔が出来るわけがないのだから。
 最後に会ったときは病的な白さだった肌も、健康的な色と張りを取り戻している。
 日本美人という言葉を聞くと、七夕は彼女の姿を真っ先に思い浮かべる。


「ああ、久しぶりだ。病気はもうすっかりいいのかよ?」
「はい。完治しちゃいました。せっかく一年近くも休学したんですから、よくなって貰わ
なきゃ困ります」
「はは、違いねえや。すると今日から復学か。クラスとかはもう決まってるのか?」
 ええと頷いた陽香は、少しだけ残念そうだった。
「惜しくも七夕くんとは隣のクラスです。あーあ、これで同じクラスだったら楽しかった
のになあ」
 全くの同感だ。彼女がクラスメイトなら、きっと今までの何倍も楽しい生活になったろ
うに。
「いいさ。隣のクラスなら、すぐに会えるだろうよ」
 そうですねと彼女は微笑む。年上だっていうのに、まるで後輩みたいな人なのだ。
 彼女は綺麗だから、七夕の同級生からも人気があった。きっと自分のクラスでも人気者
だったのだろうに、七夕に合わせてくれていたのだろう彼女は普段から下級生の教室に入
り浸ることが多かった。
 当然下級生の知り合いも増えるわけで、そういう意味では留年しても仲間外れにされる
ようなことはあるまい。
 二人は登校路をゆっくりと歩きながら、会えなかった日々を取り戻すかのように会話に
花を咲かせ始めた。
 気配を殺し後ろを歩く、剣呑な雰囲気を持つ人影に気を払うこともなく。


 獅条七夕は学校では浮いた存在だ。非日常を日常とする家業のせいもあるのかも知れな
いが、あまり人を傍に置くのは落ち着かないのである。
 別に危害を加えられるとは思っていないし、襲われたところで撃退する自信もある。
 ただ……上手く言えないのだが、きっと怖いのだろう。
 獅条の技は人を簡単に死に至らしめてしまえるから。
 射程圏内に入られると、ああ……こいつはちょっとこうすれば殺せるな、と頭の隅で考
えてしまうのだ。
 脆い赤子を抱くのにも似た恐ろしさ――といえば近いかも知れない。
 だけどそれは言い訳で、改善しようとしない七夕の方に問題があると自分でも理解して
はいる。九葉はともかく八斗などは上手く一般人と付き合っているみたいだし。
 常に人を寄せ付けない雰囲気を出している七夕に、友人と呼べる人間は少ない。
 その、少ない友人の一人が、目の前の深雲先輩だった。
 能天気なのか大物なのか、彼女だけは七夕がいくら剣呑な空気を作ろうとも、そ知らぬ
顔で傍に寄ってくるのである。
 こんな自分と平気で一緒いられるこの人は、たぶん世界でも稀有な物好きだろう。
 初めて会ったのが入学式の日だから……彼女との付き合いももう、二年以上になる。
 彼女との関係はずっと変わらず、変な先輩と妙な後輩。
 もう、あんまり慣れてしまったので、傍にいられてもそれが当たり前になってしまって
いた。
「あ、そうだ。あのねえ七夕くん、私たちもう同級生なんですから『先輩』は止めてくれ
ません? 最上級生のきみが言うと一発で留年した人って分かっちゃうじゃないですか」
「そりゃ駄目だよ先輩。先輩が先輩じゃなかったらもう先輩じゃないじゃねえか」
「……意味が分かりません。もしかして、からかってます?」
 むっ、と陽香は不機嫌に口を結んだ。
「いいや。いたって真面目だぜ。だけど、先輩が止めろっていうなら代替案を出してくれ
よ。これからは、なんて呼べばいいわけ?」
「ええと……ほら、陽香――とか」
 もじもじと指を絡ませる陽香に、七夕は一言、
「呼び難いなぁ」
 不満そうに言った。
「もう……じゃあせめて少しずつ直していきましょう? 卒業しても先輩なんて呼ばれる
の嫌ですよ、私」
 卒業しても。そんな台詞を、ごく普通に言ってくれる人なのだ。
「……なにをニヤニヤしてるんです。真面目に聞いてますかー?」
 深雲先輩、ご機嫌斜め。
「あー、別に。何でもねえよ」
 韜晦する七夕に自然な歩調で近づいてくる陽香。
 七夕の腕をそっと取った彼女は、そのままそれを自分の口元まで持っていき、何を思っ
たのかがぶ、と噛み付いた。
「いてえな、何すんだよ先輩」
 大して痛くもない、甘噛みみたいなものだった。
 きっと怒ってますよー、というポーズのつもりなのだろう。
 この先輩は時折こういう奇行に及ぶのである。
 以前、下校中に突然おぶさって来た前科もあったりする。
 一体何がしたいのかまったくもって分からないのだが――天は二物を与えないという
し、美人というのはおしなべてどこかおかしいものなのだと、自分の経験則を踏まえて七
夕はそう納得している。
「うーん……結構美味しいかも」
「食人鬼ですかあんたは」
「ええ、その食人鬼の話です」と、陽香は唐突に話を変える。単に噛み付いただけ、とい
うわけではなく、本題の前振りだったらしい。
 わざわざ噛み付いて見せて、ご丁寧に味の評価までしてくれるところが先輩らしい。
「最近、話題になっていますよね。連続行方不明事件。巷ではそれと関連付けて食人鬼が
夜な夜な人を襲っている――なんて噂になってます。心配だなあ、七夕くん美味しいから」
「褒めてるのか、それ? 全然嬉しくねえよ。大体もう解決したぜ、その事件は」
 七夕は即答する。
「えぇっ、本当に?」
「ああ。犯人は、はぐれ人狼の群れでさ、丁度昨夜やっつけちまったところなんだ。
 だから、もう安心していい」
 半分は嘘だった。人狼も行方不明事件の原因の一つではあったのだろうが、それだけで
は完全解決とはとても言えない。
 他の理由で失踪している人間だって、まだいるのだから。
「そういえば、七夕くんはその若さで『百鬼衆』に所属する凄い人なんでしたっけ。こう
して話していると忘れちゃいますけど。じゃあ、今回の事件を解決したのもきみだったわ
けですか。うーん、感謝しなくちゃいけませんね。ありがとう、七夕くん」


 百鬼衆。
 獅条本家及び分家の人間のみで構成される、妖怪関連事件専門の捜査員。
 妖怪の干渉が疑われる案件の捜査、異世界からやって来る『はぐれ』妖怪の処理。
 滅びの気に憑かれた『変異』の殲滅浄化など、その他全般的な治安維持業務を執り行う
総勢百名からなる精鋭部隊である。
 本当はまだ七夕は見習いで、人狼の群れを壊滅させたのは殆ど兄貴たちの功績なのだが。
 今更言い出せない七夕は、複雑な気持ちで照れ笑いつつも賛辞を賜ることにした。


「……どういたしまして。けど、だからって夜出歩いたりしちゃ駄目だぜ。用心に越した
ことはねえんだから」
 この狭い世界では『失踪』なんて単語に強い意味はない。虱潰しに探して見つからない
なんてことはまずないし、もしも死んでいるのだとしても、それなら死体が見つかる筈だ
からだ。稀なケースとして異世界に迷い込んでしまった可能性もあるが、それなら世界の
歪みを感知することができる恭二が気づかないはずがないのである。
 だから、件の噂はいいところを突いている。
 イワトにおいて失踪者が見つからないということはすなわち最悪のケース……
『喰われた』可能性が高い。
 綺麗に平らげれば『喰い糟』は残らないからだ。
 人間を食物とする妖怪野郎がまだ、この世界のどこかにいる。
 それは、酷く現実的なイメージだった。お上品に食餌を摂るそいつは、もしかしたら。
(今、俺たちの後ろにいたりするのかもしれない――)
 そんな妄想に突き動かされて、七夕は後ろを振り返った。
「――――」
 瞬間視線が絡み合い、周囲の温度が一気に冷える。
 振り向いたそこで、一人の女生徒が足音もなく立ち止まった。見覚えはない。
 同じ制服を着ていても陽香とはまるで逆反対の、凍て付くような冷たい雰囲気。
 喩えるならば野生の獣。それも獲物を狩って血肉を貪る、肉食獣のような――


 所々跳ねた癖毛。髪の色は薄い栗毛だが、両耳の脇から下は左右対称に金色のメッシュ
を入れている。ものもらいでも患っているのか、左目には医療用の白眼帯。
 どこか犬じみた気配を持つ女が、剣呑極まりない表情で七夕を睨みつけている。
 凝視に込められているものは紛れもない敵意。
 今の今まで気付かなかったのが不思議なくらいだった。この女は、恐らくずっと七夕た
ちの後ろを歩いていたに違いないのに。
 気配を消していたのだろうが、それでも浮かれてすぎていたと舌を打つ。
「……なに見てやがる、てめえ……!」
 どすの利いた怖い声で、七夕は少女の敵意に応じた。
 こんな女に舐められる筋合いはない。理由を質して、とっちめてやろうと思った。
 陽香が驚いて「七夕くん……!」と諌めてくるが、引くわけにはいかなかった。
 眼帯女が口を開く。
「酷い臭いだ――鼻が腐る」
 七夕の声に気圧されるでもなく、生ごみでも見るように目を眇める。吐き捨てるように
粗野な口調は、彼女によく似合っていた。
 が、気に喰わない。美醜で言えば間違いなく上の部類に入るのに、こいつの顔を見てい
ると正体不明の苛立ちが募る。犬猿の仲という言葉があるように、ともすると本能的な嫌
悪感なのかもしれなかった。


 まるで――宿敵と出遭ってしまったような。


「そうかよ。よく分かったぜ」
 穏やかな声で言って、
「つまり喧嘩を売ってるんだな、てめえ――!」
 そして激昂した。
 只者じゃないのは一目見た時から分かっている。混血(まじりもの)か能力者か。
 別にどちらでも構わないし、女だからと遠慮する必要なんてない。
 何故ならこいつはケダモノだ。容赦なんていらない、するつもりもない。
「――下衆」
 呟く女との距離が零になる。
 次の瞬間、地に膝を付いていたのは殴りかかった七夕の方だった。
 凄まじく速く、そして綺麗で正確な廻し蹴り。
 側頭部に喰らったのだと脳が理解し、遅れて痛みがやって来る。
「ぐっ――ヤロウ」
 つ、と流血が頬を伝う。
 馬鹿が……容赦なしと言っておいて、どこかで油断があったらしい。
 そう素直に認めると、頭はいい感じに冷えてくれた。
 日常用から戦闘用に。綺麗にスイッチが切り替わって、顔は薄笑みを形作る。
 隻眼王すら逡巡させた、あの表情だった。


「犬を殺したろう、おまえ」
 跪く七夕を見下ろして、冷然と眼帯の女は言う。
「おまえの身体に染み付いた死臭が言っている。我等の恨みを晴らせってな。
 ――犬殺し。臭くて目障りで、苛々する。
 冗談じゃない。朝っぱらから、どうしてこんな汚物を見せられなきゃならないんだ。
 生憎今朝の私はすこぶる機嫌が悪い。痛いんだよ……目が……!
 ああ――おまえを見てたら、余計に痛くなってきた。だからさ」
 眼帯で塞がれた片目を抑えて、苦しそうに歯を噛み締める。
 覗く犬歯は、牙みたいに鋭かった。


「とりあえず、死んでおけよ」


 高みから振り下ろされる爪撃は、強烈な既視感を伴なって迫る。
 だが当たらない。先までの日和った男にならば命中したろうが、精神を研ぎ澄ましてい
る今の七夕には回避できて当然の一撃だった。
 一度見た技(、、、、、)が通用するほど、獅条七夕は甘くない。鞠のように転がってかわす。
振り切った爪を反転させて、連続攻撃に移ろうとする犬女。
 予定通りとでもいうように、七夕は指に挟んだ短冊をカウンターのタイミングで投擲し
ようとして――
 割り込んできた人影を際どく認識、腕を止めた。
 陽香だった。
 彼女は戦闘開始の鏑矢(かぶちや)ともいうべき打ち合いを、体を呈して止めに入ったのである。見
れば犬女の爪も、陽香の肩口ぎりぎりで停止していた。


「はい、そこまでです。二人とも」
 ぴしゃりと有無を言わせぬ口調で、両腕を広げて立つ陽香。
「はあ。一体、何をやっているんですか貴方たちは。……七夕くん。きみはちょっと短気
すぎです。いくら挑発されたからって、女の子に殴りかかってどうするんですか」
 めっ、と指で額を小突かれた。
 そして陽香は振り返り、面食らったように停止している眼帯の女と向き合う。
「私は三年の深雲陽香といいます。こっちは同じく三年の獅条七夕くんです。
 貴方のお名前は?」
「……何言ってるんだ、おまえ?」
「人と話をする時には、まず自己紹介をするものでしょう」
 一触即発の雰囲気が陽香の登場によって霧散していく。
 眼帯女は所在なさそうに腕を引っ込めると、
犬神(いぬがみ)(みさお)
ぶっきら棒に、名乗った。
 犬神……その名前には聞き覚えがあるが、思い出せなかった。
 何か、特別な家名だったような気がする。九葉あたりに聞いてみれば知っているかもし
れない。
「では犬神さん。貴方は誤解していますよ。七夕くんは犬を殺してなんていません。
 彼がやっつけたのは、例の連続行方不明事件の犯人。人狼だそうです。
 貴方、随分と鼻が利くようですけれど、狼と犬の違いは分からなかったみたいですね」
「……おまえ、私が怒っていた理由が分かるのか」
 はい、と陽香は言って――
「ですからもう止めましょう? ほら、その子も怯えていますよ」
 陽香の視線の先、操の足元にはいつのまにか子犬が寄ってきていた。柴犬と何かの雑種
だろう子犬は、訴えるような瞳で一同を見詰めている。
「おまえ……待っていろと言ったのに」
 操は子犬を抱き上げると、決まりが悪そうな顔をする。
「犬。お好きなんですね」
「人間よりはな。……謝るつもりはないぞ。犬殺しは誤解だったようだけど、その男が気
に入らないってのは変わらないから」
「てめえ……」
 七夕の憤りを操は意にも介していないようだった。
「獅条なんて、言ってみれば妖怪専門の殺し屋だろう。人間のために――妖怪を殺す。
人間からしてみればありがたいのかもしれないけどさ。どちらでもない私から言わせて
もらえば――ろくなもんじゃない」
 どちらでもない、という言葉が引っかかった。この女、やはり半妖か。妖怪の血が混じ
った彼らの中には、獅条に敵対意識を抱く者も少なくない。
「犬神さん」
 あくまでにこやかに、調停を続ける陽香。だけど今、笑顔の『質』が僅かに変わったこ
とに、気付いたものがいただろうか。
「いいから、もう行ってくれません? これでも怒っているんですよ、私」
 彼女の背中しか見えない七夕には、当然気付くことはできなかった。
「貴方は彼の顔を、蹴った――。謝らなくても結構です、困っちゃいますから。理由はど
うあれそのことについては私、貴方を許すつもりはありません」
 声の調子は至って穏やかなまま。
 黙って陽香の話を聞いていた操は一言、
「――怖い女」
 と、言った。
「言われなくてももう行くよ。おまえらなんかにはもう、金輪際関わり合いになりたくない。
……けどもう無理かもな。なんだか、そんな気がする。残念なことに、こういう時の
私の勘はよく当たるんだ」
 挑むような目。捨て台詞を残して踵を返す。黄泉平坂を下っていく彼女の姿は横道へと
消えていった。
 制服を着ている癖に、学校に行くつもりはないらしい。
『犬神操』……獅条七夕は、宿敵の名前を己が裡へと深く刻み込んだ。