第四章 戌神の末裔



 職員室から出席簿を拝借して、再び一向は屋上に戻る。
 全校生徒七八十名。うち女生徒三七七名。さらに女生徒のうち甲賀遼平が死亡した当日、
欠席していたのは二五名。
 そこで、行き詰ってしまった。検索条件が広すぎて、犯人を絞り込むことが出来ない。
 だが、これはこれで一つの前進ともいえる。また新たに情報が入ればもっと絞り込むこ
とができるし、疑わしい人物を照合して見るという使い方も出来る。
 思いついて、七夕は『犬神操』を調べてみた。
 三年二組。陽香と同じクラスである。結果は……出席。
 あいつは遼平が死んだ日に、学校へ登校していた……。
 ただそれだけのことなのだが、どうにもあいつは引っかかるのだ。
 むかつくし。
 それに一応、美人でもある。遼平のアンテナに引っかかる可能性は――高い。
「なあ九葉。『犬神』って名前に心当たりはないか?」
「……よく知っていますけど。それが何か」
「三年の犬神操って奴と今朝揉めてよ。そいつが……なんとなく、怪しい。この理由じゃ
不足か?」
「いえ。私たちの場合、直感に頼るのは有効な手段でしょう。ただ、犬神家を知らないと
いうのが吃驚です。兄さんの頭の中身を疑ってしまいそう……」
 思うにこの妹には、兄に対する敬意というものがないのではなかろうか。


「『犬神』は十二の獣神を始祖とする半妖の一族で、いわゆる『御薙(みなぎ)寄り』の家ですよ」
 イワトの成立に直接関わり、その管理行政に携わる二家、獅条と御薙。
 獅条家。人間を尊重した法を定め、武力によってイワトを管理する半鬼の一族。
 御薙家。妖怪の立場を守り、呪力によって獅条の独裁を制御する巫女の家系。
 この二家はそのまま政治派閥となっていて、言うまでもなく両家の仲はよろしくない。
 雲の上で行われる政治駆け引き云々は分からないが、七夕の主観でいうなら獅条が与党、
御薙が野党に分類されるだろうか。
 犬神は御薙寄り……半妖の中でも特に獅条を毛嫌いしている一派ということになる。


「犬神、鳥神、蛇神、猿神。十二のうちの四がイワトにあり、半妖の代表格として君臨し
ています。
 妖怪を殺すことを生業とする獅条と御薙寄りの妖怪擁護派である犬神は、正に犬猿の仲。
 今でも頻繁に揉め事を起こしていますし、出来れば余り関わるべき人々ではありません。
 と、言いますか……こんなことは私たちにとって常識でしょう。もう忘れないでくださ
いね、兄さん」
 九葉は、呆れたように嘆息する。皮肉がこれでもかとばかりに込められていた。
「……努力はするぜ。ふん、それで。この事件の犯人が犬神の『変異』である可能性……
これはアリだと思うか?」
「ありえないことがありえない……それがこの世界の基本原則ですよ」
 どこか諦観じみた口調で、妹は言った。
 九葉の言うとおりだった。精神を強く持っていれば心を闇に侵食されることはないが、
それでも絶対とはいえない。仮に、九葉や八斗が何かの拍子に『変異』してしまう可能性
だって、零ではないのである。
 獅条は精神集中していれば妖魔の気配を敏感に感じ取ることが出来るのだが、妖怪や半
妖と『変異』との区別を付けるのは中々難しい。また、『変異』になりかけている人間は
妖気が薄く、これは感知自体が困難である。
 現行犯でぶっちめるのが一番いいのだが、そう上手くはいくまい。
 やはりもう一度会って『変異』かどうか、自分の目で確かめてみるべきか。
「よし、決めた」
 七夕は勢いよく立ち上がった。
「俺はこれから犬神操に会ってくる。虎穴に入らずんば虎子を得ず。とりあえずは正面か
らぶつかってみるさ。あわよくば尻尾を見せるかもしれねえ」
「……無茶はしないでくださいね、にいさん」
 心配そうに八斗は言う。
「……短絡思考ですね、兄さん」
 氷の流し目で九葉は言う。実に対照的な兄妹だった。
「犬神は『狼』と『犬』の違いこそあれど、人狼と酷似した特性を備えています。
 半妖である彼らは人狼のように完全に獣化することが出来ない代わりに、日中でも通常
の人間よりも高い身体能力を発揮し、獣の爪牙を用いた体術を駆使するそうです。
 昼間だから比較的安全にことを運べるだろうと目論んでいるのなら、残念ながら的外れ
ですよ?」
「あの女がやたら強えのはよく知ってる。けど、夜よりはマシだろ。あの強さで獣化され
たら正直手がつけられねえ。『変異』なら、なおさらな……。
 今のところ疑わしいのはあの女一人だけだ、何もせずに手を拱いているわけにゃあいか
ねえよ。それに別に殴りこみに行こうってわけじゃねえ。太陽があるうちにちょっと会っ
て話してみるだけだ。
 いくら仲が悪いつっても、獅条の名前を出して菓子折りでも持っていきゃあ、あちらさ
んだってそうそう無下にもできんだろう?」
「……どうでしょう。犬神操は当主の一人娘です。獅条――彼らにとって見れば憎むべき
『殺し屋』に――そう簡単に会わせるでしょうか。学校などで偶然会うならともかく……
少々疑問ですね。しかしそういうことなら、一つ考えがあります」
 九葉は七夕の耳に口を寄せて、密やかに囁いた。


「本当かよ……?」
「兄さんは私の策が信用できないと?」
 懐疑的な態度の七夕を、ぎろりと睥睨する九葉。
「そうじゃねえけどよ……まぁ、おまえの言うことなら間違いないわな」
 どちらにしろ他に策があるわけでなし、何であれ用意しておくに越したことはなかった。
「さあて、行動開始と行こうぜ」
 七夕は縁に座り込んでいた体勢から腰を上げ、尻を叩いて埃を落とす。
「しかし、食人『鬼』たぁ……人聞きの悪い話だよなぁ」
 屋上の出口。扉の取っ手を引きながら、誰にともなくぼやいた。
 そんな独白に、律儀にも八斗は返事を返してくれる。いい弟である。
「僕たちの始祖はそのものずばり『鬼』ですからね。鬼って言葉が邪悪の代名詞みたいに
言われるのは、僕もちょっと嫌だな。でもさ、そう的外れな比喩じゃないかもしれない…
…」
「八斗?」
 唐突に何を言うのかと、九葉は訝るように呼びかけた。
 八斗は妹に一瞥だけで応え、続ける。
「妖怪の因子が少ない七夕にいさんには実感が沸かないかもしれないけど、獅条だって半
妖であることに違いはない。中には強い食人の衝動を、必死で抑えている人たちも……い
るんです」
「……何が言いたいんだ、八斗」
 つい、詰問口調になってしまった。持ち前の三白眼も手伝って、八斗はびくりと怯える
ように身体を竦ませた。
 八斗を苛めるなとばかりに、九葉が凄い目で睨んでくる。
 弟は躊躇いながらも重い口を開き、彼が事件の初めから懸念していたのだろう言葉を吐
き出した。
「もしも食人鬼が……本当に食人『鬼』だったら。にいさんはどうするんですか……?」
「殺すさ。それが掟だ」
 考えるまでもない、分かり切った結論だった。
 優しすぎる弟は泣きそうな顔をして、しばし俯いていた……。


  *


 犬神操が住む家は、旧市街の西側にある。黄泉平坂停留所から路面電車で二十分、そこ
から徒歩でさらに二十分ほど山に入り進む。
 うっそうと薮が茂るばかりの、寂しいところだ。
 イワトの旧家にありがちな藁葺屋根の広い屋敷だが塀や柵がなく、まるで山そのものが
庭となっているようだった。
 玄関先の井戸を拝借して水を飲む。顔と胸元に滲む汗を手拭で拭き取ると、七夕はよう
やく一息を吐いた。
「さあて……」
 持参した手荷物に一瞥を向ける。本当にこんなもので、上手くいくのだろうか……?
 七夕たちは一度家に戻り、先の会議で決めたとおりそれぞれの捜査に当たることにした。
 七夕は狼の匂いを少しでも落とすために薬湯に漬かり、九葉から件の手荷物と地図を受
け取って犬神家へと向かったのである。
 九葉と八斗は、警邏がてら学校周辺の聞き込みに当たり、放課後からは校内の捜査を進
めるという段取りになっている。
 勿論兄たちを含む百鬼の連中も独自に動いているのだろうが、閉鎖的な風習のある学院
内の捜査はやはり自分たちが適任であるし、学友の仇を人任せにはできない。
 三人の思いは一致していた。


 決心も新たに、七夕は玄関の戸を叩いて呼びかける。
「どちら様でございましょう」
 慇懃な台詞と共に現れたのは、地味な洋装の二十半ばと思しき女性だった。白いシャツ
に長い紫のスカート。細い瞳と小さな鼻、操とは種類の違う犬面。長い栗毛の――客観的
に見れば美人と言える風体。佇まいに隙がなく、武術の嗜みがあると見て取れる。
 犬神家の中でどういった立場の者かは定かではない。
 ただ……人間の姿をしているが妖気を感じるので、彼女は文字通りに犬神家を守る、
『番犬』であるらしかった。
「俺は獅条七夕という。犬神操に取り次いでもらいたい」
 率直に申し出た。口八丁の駆け引きは、七夕の本分ではない。
 案の定、女は難色を示した。
「そう藪から棒に仰られても困ります。高名な獅条のお客人、手厚く迎えたいのは山々で
すが……我等の立場もお考えになられては如何ですか。まずはご用件を伺いましょう。お
嬢に会わせるかどうかは、それからの話」
 犬神の血を引いていることは間違いないのに、操のことを格上に扱うということは、彼
女は分家筋の者なのかもしれない。血の濃い薄い、能力の上下などその家独自の家憲で身
分を分けるのは、イワトでは普通に行われていることだ。
「硬いことを言うなよ、どうせ学校で会うってのに。用件って言われてもなぁ……個人的
な理由で会いに来ただけだ。こいつを渡しに」
 手荷物の風呂敷を解いて、中を見せてやる。この荷物の中身こそ、九葉が自信ありげに
囁いた秘策の肝だった。
「む……これは中々……。いや、眼福でございます。私の記憶が確かならば、そいつは『外』
の逸品ですね。ふむ、それならばお嬢の目にも叶いましょうが――さて」
 丁寧な話し方をする女は、鼻をひくひくと蠢かせた。
 さすがに鼻が利く。こういうのは鼻聡いとでもいうのだろうか。
「ところで『外』には、小間使いや給仕に手間賃として僅かばかりの金を払う慣習がある
んだと。でもあんたは、金よりこっちが好みだろう?」
 七夕が懐から取り出したのは、薄い鼈甲色をした骨。
 食用骨型牛皮、いわゆるチューインガムというやつだった。パッケージには噛み癖のあ
るわんちゃんに、などと明記されている。
 果たして噛み癖のある女の子にも有効だろうか、そこは気になるところであった。
「そ、それは……!」
 女は目の色を変えて食い付いてきた。馬鹿らしいと思っていたが、存外に効果があった
ようだ。我が家の小さな軍師殿、犬神の特性を知り尽くしている九葉の作戦はやはり侮れ
ない。
 ごくり、と唾を飲み込んで女は言う。
「よろしい……お取次ぎしましょう。ですが、何か妙なことをすればその時は……お分か
りでしょうね?」
 生きて帰れると思うなよ――そういう脅しを込めた台詞だったが、後生大事に骨おやつ
を握り締めた格好ではどうにも迫力不足だった。
 首尾よく番犬の買収に成功した七夕。
 女はここで待つようにと言い残して屋敷の中に戻っていった。


 ほどなく、目当ての人物は玄関に姿を見せた。
 所々跳ねた栗色の癖毛。左右対称に金メッシュを入れている。そして、左目には眼帯。
 犬神家直系の息女、犬神操。
 着替えたのか制服ではなく、随分と涼しそうな格好をしていた。
 白いノースリーブシャツの胴体部分を破き、臍を露出させている。同様にジーンズは動
き易いよう裂かれて、まるで下着のようにされていた。これが彼女の普段着なのだろう。
 それより何より、尻から飛び出ているものはもしかして……尻尾、だろうか。ふさふさ
と柔らかそうな毛の生えた犬の尻尾が、ゆらゆらと揺れている。
「獅条などに買収されるとは、まったく情けない奴だ」
 操は何かを齧りながらやって来た。番犬を買収するのに使った、チューインガムだった。
 彼女は相変わらずの仏頂面で、美味そうにばりばりと豪快に噛み砕いて嚥下した。
 さっきの女も、さぞかし無念だったことだろう。
「犬神操。てめえに話がある」
 ぺろりと唇を舐めてから、斬り捨てるように操は答える。
「獅条七夕とかいったな。おまえと話すことなんてない。金輪際関わり合いにはなりたく
ないと言った筈だ。今すぐ消えろ、殺されたくなかったらな」
 操は腕を束ねて、睨みつけてくる。取り付く島もなかった。
 だが、これは予想された展開でもある。七夕は黙って風呂敷包みを開いて見せた。
「な……」
 落雷を受けたように、操は驚愕する。
 風呂敷から出てきたものは『外』の室内装飾具。先ほどまでは九葉の部屋を飾っていた、
『ぬいぐるみ』という代物だった。
 円らな瞳が特徴的なこいつは『チワワ』という小型犬を模して造られたものらしい。
「手ぶらじゃなんだと思ってな。こういうものを用意してきた」
 依然硬い表情のままで、操は豪然と言い返す。
「ふん。ば、馬鹿め。そんな賄賂のような真似が私に通じるとでも思っているのか?」
「目茶目茶尻尾を振ってるじゃねえかよ」
「うるさい黙れ! 見るな!」
 かあ、と赤面した操は、残像が見える勢いで暴れる尻尾を両手で捕獲して、尻の後ろに
隠した。
「そうかいらないのか。じゃあ仕方ねえな、大人しく帰るぜ」
「待て……ちょっと待て!」
 片手を前に突き出して、制止の声を上げる操。残る片手では制御しきれず、再び尻尾が
暴れ出す。これからこいつの感情を量る時は、尻尾を見ればいいと思った。
「……いいだろう、上がれ。その度胸があるのならな」
 だから早くそれを寄越せ。
 偉そうな口調とは裏腹に、餌をおあずけされた犬みたいに言う。
 七夕は弄うように口端を曲げ、ぬいぐるみを差し出した。
 それを乱暴に攫って、操は踵を返し歩いていく。何かを押し殺すかのように、あえて足
音を立てるような歩き方だった。
 ともあれ。ついてこい、ということだろう。
 パタパタと激しく左右運動を繰り返す尻尾を眺めながら、七夕は操の後に続いた。


 やがて通されたのは、畳敷きの客室だった。家具はなく、幾つか座布団が敷かれている。
 縁側から見える山の景色は人の手を借りぬ自然そのままの趣。
 紫陽花や菖蒲など夏の花々が伸び伸びと咲き誇っていた。
 其処彼処から犬の鳴き声が聴こえて来る。まるで子供たちが戯れているような……生活
感のある暖かな風情の喧騒。
「……そこで待ってろ、私は佐助を置いてくる」
「もう名前付けたのかよ」
「ふん、そんなこと私の勝手だろ。いちいち癇に障る男だな……。玉緒(たまお)!」
 操は少し間をおいて、もう一度「玉緒!」と呼ばわった。
「お待たせいたしました」
 丁寧にお辞儀をして現れたのは、先ほど玄関先で出会った女性だった。
「遅いぞ。何をやっていた?」
 靴を噛んでおりました。淑やかに女は答える。
「ふぅん、まあいいや。こんな奴でも客は客だ。茶でも淹れてやれ」
 畏まりましたと了承し、玉緒は再び頭を下げて退室していった。見たところ二人は主人
と使用人のような関係であるらしい。
 一連の会話に違和感を抱いてはいけない。半妖たちは種族によって特有の文化を持って
いるので、価値観が一致しなくても出来る限り干渉しないのが暗黙の了解なのである。
 見た目が人でもまるきり犬じゃねえかなどと、思っても言ってはいけないのだ。
 操は隣室の敷居を跨ぎ、ぴしゃりと襖を閉めた。一人和室に取り残される七夕。
「……はっ」
 あまりにも安穏とことが進むので、少々気が抜けてしまった。最悪、門前で丁々発止(ちょうちょうはっし)
という事態まで視野に入れていたのに、とんだ心配損である。
 昨夜の人狼の印象が強かったために、『犬』ということで必要以上に警戒していたのか
もしれない。
 犬神一族、思いの外にお茶目な奴らである。
 こっそりと襖の隙間から隣室を覗き見れば、子犬のぬいぐるみとじゃれ合う現役女子高
生がいたりするくらいに。
 チワワと共に床を転がっていた操はひとしきり楽しむと、ぬいぐるみを高く掲げ持ちそ
の場で回転。リズミカルに尻尾を振りつつ、箪笥の上に陳列させた。
 至福の一時を覗いていたことがバレるときっと阿修羅の如くに怒るだろうので、七夕は
早々に覗きを切り上げ座布団の上に腰を下ろした。


 そして何ごともなかったかのように襖が開いて、操が戻ってくる。
「待たせたな」
「いや……堪能したか?」
「な、なんのことだ……」
 どもりながら、操は七夕の対面に腰を下ろした。正座ではなく、妙な座り方だった。
 両腕を前について、片膝を立てる……片面から見れば、神社にある狛犬に似た姿勢。
 彼女の祖は四本足の獣である。だから、四本の足を地に付けている方が楽なのかもしれ
ない。無論、眼前の敵にいつでも飛びかかれる体勢でもある。
「それで。どうして私が犯人だと思う?」
 唐突に。まるで見透かしたような言葉が、操の口から発せられた。
「……驚いたな。てめえ、俺が来た理由が分かってたのかよ」
「愚問だ馬鹿。獅条が動く理由なんて、妖怪がらみの事件以外にないだろ。だったらその
事件は、噂の食人鬼とやらに決まってる。
 いくら下っ端でも、獅条は私怨じゃ動かない。なら、私が人を喰っていると思われたわ
けだ。……けど分からない。私たちは初対面だった筈。今朝のたったあれだけのやり取り
で、どうして私が犯人だと思う」
「てめえは姿こそ人間だが、肉食の半妖だ。人を喰いたいと思ったことがないとは言わせ
ないぜ?」
「喰いたいと思うのと、喰うのは別だよ。全然違う」
 そうか? と七夕はあえて疑問形で応対した。
「人を殺したいと思うのと、人を殺すのは一緒じゃないだろ。それと同じことだ。
 我慢って言葉、知らないのかおまえ。半妖だって規範と常識ってものはそれなりに弁え
てる」
 それは、七夕にとっても分かりきったことだった。
 人を喰う本能をもつ妖怪、半妖はこの世界には腐るほどいる。
 その中でイワトの法に反してまで人喰いをする妖怪。
 狂っている妖怪。
 つまりそれは……
「つまりおまえは。私が『変異』かもしれないと、そう疑いを持っているわけだ」
 ご名答、だった。
 左目が痛むのか、操は眼帯を抑えて少しだけ顔を歪める。
「失礼な話だ。やっぱり、おまえは気に入らない」
「俺だって、どうにもてめえは気に喰わない。そこまで察しているなら隠すこともねえ。
 確かに俺はおまえが怪しいと踏んでいるのさ。獅条の『変異』を補足する勘の鋭さは、話
に聞いたことくらいはあるだろう?」


 存在しているだけで世界を滅亡へと傾倒させる、忌まわしき闇の申し子。
『滅び』の気の大元たる諸悪の根源。
 自身を含む何者にも滅ぼすことが叶わない、不老不死の肉体。
 永劫の刻を生き、昏き美貌を有し、無尽蔵の妖力と無双の膂力を所有する大妖怪。
 数百年前、御薙の大秘術『封滅結界』によって現世より隔絶封印されたそれを――
 呪いと畏怖を込めて、人は『鬼』と呼ぶ。


 獅条家は、鬼の血を引く半鬼の一族。
 故に獅条は、世界を病ませ崩壊させる『滅び』と高い親和性を持っている。
 体内に『滅び』を宿し『滅び』の力を制御し、エネルギー源として行使する獅条は、
言ってみれば生まれながらの『変異』といってもいい。
 だから双子に見られるという共時性(シンクロニシティ)のように、『変異』の気配を曖昧な『勘』という
形で感じ取ることが出来るのである。


 操はつまらなそうに、息を吐き捨てた。
「だとしても『勘』だけで。怪しいというそれだけで殺されちゃ堪らないよ。
 そもそも今回の事件、『変異』の仕業だと決まったわけじゃない。
 妖怪、半妖に限らず。人間だって、気が触れれば共食いくらいするさ。
 人を人喰い扱いするんだ。それなりの根拠があるんだろうな……」
 操は唸るように喉を鳴らし、視線を強めた。
 凝視を受けて、七夕は首肯する。
「ああ。てめえが知ってるのはあくまで噂で流れている部分だけだ。
 俺たちは独自の調査で『学院内の女』が怪しいと睨んでいる」
 七夕は、昨夜人狼の群れを討伐したこと。人狼の被害者を除くと、残りの行方不明者は
殆ど学校関係者に限定されてしまうこと。『食人鬼』による第二の被害者と思われる甲賀
遼平が、死亡当時、女性と会っていた可能性があることなどを話して聞かせた。
「加えて、おまえからは嫌な気配を感じる。ここまで揃えば、疑わしきは罰せずと放置し
とくわけにゃいかねえよ。だから、こうして直接会いに来た。
 ……けどまあ、おまえと話してると悪い奴とは思えねえし、闇に飲まれるほどヤワな精
神構造をしてるようには見えねえ。無駄足だったような気がし始めてるってのが正直なと
ころだけどな」
 両腕を広げて、おどけるように七夕は言う。操からずっと感じる『嫌な気配』のせいで、
どうしても好きにはなれないが……
 それを除いて客観的に評価するなら、犬神操はそう悪い奴じゃない。
 粗雑で女らしくないが、明け透けな態度はむしろ好もしいくらいだった。
「……べらべら包み隠さず喋るのも、さっきの土産も、非礼に対する詫びのつもりか?」
「まあな。けど、水に流せとは言わねえよ。まだ冤罪と決まったわけじゃねえし、事件が
解決するまでは、おまえは有力な容疑者だ。しばらくは不快な思いをさせちまう。こっち
も仕事なんでな」
 操をしばし考えるように瞑目し……
「そうか。おまえ、むかつくけどいい奴なんだ」
 溜息を吐いて、そんな相反するようなことを言った。
 七夕は困惑する。彼女が下した七夕の評価と、七夕が下した彼女への評価が、まったく
同じものだったからだ。
 ……親近感と、同族嫌悪。
 親愛と憎悪がマーブリングのように混濁した不可思議な感触。
「じゃあ、私からも一つ教えてやる。おまえは、何も分かっちゃいないようだからな」
「なんだと……?」
「連続行方不明事件――食人鬼か。笑わせる、なんて自己中心的な捉え方だ。おまえたち
は、物事の一面しか見えてないから、こんな事件すらも解決できないんだ」
 まるで事件の全貌を知っているかのように、操は言う。
「けど仕方ないか。この事件は初期状態からして、犬神操が真実に最も近い場所にいるん
だから。どうしたって私が最初に気付くに決まっている(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。いくら獅条の勘とやらが『変異』
探しに有効だとしても、『なりかけ』じゃあ反応だって微弱だろうからな。
 そもそもおまえたちには想像力ってものが欠けている。自分たち以外の種族を、何だと
思っているんだか。あのさ、おまえ毎食、同じ食い物を食べてるのか?」
 分からない。こいつ……何を言っている?
 七夕は訝るように、目を細めた。
「だからさ。人を喰う妖怪が、人間しか喰わない(、、、、、、、、)とでも思っているのか?」
「てめえ、そりゃあどういう――」
 問い詰めようと手を伸ばした、正にその時だった。
 七夕の精神を一際強い嫌悪感が奔り抜ける。脳髄を氷の槍で貫かれたような。
 操は突然勢いよく、がくりと頭を垂れた。
「づ……!」
 眼帯の上から左目を鷲掴みにして、歯を食いしばる。息は荒く、意味不明の呻きを上げ
てがくがくと震えている。
「これは……」
 七夕はこの光景に、再び強い既視感を覚えた。
 そも、彼女に疑いを持った最初のきっかけが、この感覚。以前どこかで出遭ったような、
不可解で不快な感触。前世での仇が目の前に現れれば、似た感情を覚えるかもしれない。
 眼前の存在に、禍々しい妖気が充溢し膨れ上がっていくのが分かる。
 まるで昨夜の焼き直しのような。
 七夕は音もなく立ち上がり、臨戦態勢へと移行する。
 ――遅まきながら、獅条七夕は気がついた。己の宿敵が、一体『誰』であるのかを。
 歪曲された偶然は必然へと変じ、変異同士を磁石のように引き寄せる。
『変異』捜索において、獅条は殲滅戦力であると同時に、自身が敵を補足する探知機、敵
を惹き付ける誘蛾灯の役割をも果たす。
「が……! ぐっ!」
 獅条七夕の『勘』――鬼の本能は、最初からずっと警笛を鳴らし続けている。
 犬神操は気に入らない(、、、、、、、、、、)。こいつは倒すべき宿敵だと。
 そして、犬神操は最初から繰り返し言っていた。
 獅条七夕が気に入らない(、、、、、、、、、、、)。おまえを見ていると目が痛む。
 その苛立ち。その不快感。相手を厭う感覚はどちらも同じ根源から生じるモノだ。
『変異』同士が通じ合う、共時性の一つのカタチ。
 ならばやはり、結論は一つに収斂される。
「あ――ガ、ゥ」
 白から紅、眼帯に血が滲む。滂沱と流れ落ちる紅い涙は、小さな布では抑えきれない。
 まるで眼球を抉ったよう。


「――まいったな。どうも、おまえの『勘』とやらが、当たった、みたいだ」


 痛々しいほど息は荒く。最早隻眼じみた右の眼は、飢えた獣のように血走っている。
「……逃げた方がいいんじゃないか、獅条。私の身体が『変異』なんて、したら。
 多分、すごく、強いぞ」
 死の淵にあって、人は初めて醜い本性を曝け出す。
 なのに、この期に及んでなお、彼女の口から出てくる台詞は他人の心配だった。
 きっと犬神操というこの女は、底抜けのお人好しに違いない。
「だろうな。だけど、馬鹿いえよ。家族を殺したいのか、おまえ。俺がきっちり始末して
やるから、安心して死ね」
「そういえば、そうか。じゃあ、すまないが……よろしく頼む。ふん、殺し屋ってのも―
―たまには役に立つんだな」
 驚くほどにさっぱりと、犬神操は自身の抹殺を依頼した。『滅び』に存在を侵されつつ
あるというのに、彼女の強さは微塵たりとも揺るがない。
「……なぁ。私はこんなモノに負けるほど、弱かったのかな?」
 操は哀しげに呟いた。
 信じていた物に裏切られてしまったような、彼女には似合わない声で。
「いいや、てめえは強いさ」
 七夕は即答する。
 彼女の高潔なる精神を穢し、闇に染めることなど誰にも出来る筈がない。
「だが、おまえを侵しつつある『そいつ』は極め付けに厄介な代物だ。
『憑依型魔性変異』
 慙愧無念を残して死んだ『変異の魂』が取り憑いた状態……。
 こうなっちまうともう、憑かれた方はどうしようもねえ。いくら精神が強かろうと、成
す術もなく身体を乗っ取られちまう」
「獅条、私はもう駄目か?」
 率直に操は問う。
「ああ、もう駄目だ。それに、てめえは人を喰ったんだろう?」
「……そんな記憶はない。
 が、こうなってしまうと私の記憶などアテにはならんのだろうな」
 七夕は頷く。
「人を殺した妖怪は、速やかに始末される。例外はない。女だろうが善人だろうが、例え
親兄弟だったとしても」
 誰であれ殺すと。刃のような声で、七夕は断じた。
「さっき何か、言いかけてたよな。消える前に言っておけ」
 操は静かに、首を横に振った。
「いや、無用な心配だった。おまえは立派な鬼だよ。誰であれ殺すというなら、私の助言
なんか必要ない。ただ、一つだけ約束しろ。おまえの信念、決して曲げないと」
 迷わず私を殺して見せろと、誇り高き犬神の末裔は最後に言った。
「あたりまえだ」
 万感の想いを乗せて、七夕は首肯した。
 その答えに満足したのか、操は安らかに目を瞑る。


 ……再び開いた隻眼には、黒い炎が宿っていた。


また遭ったな(、、、、、、)獅条(、、)。約束どおり、蘇って来たぞ……」
「ああ……お目覚めかよ隻眼王(、、、、、、、、、)。約束どおり、殺してやるよ」
 そうして、獅条七夕と隻眼王は二度目の邂逅を果たした。