顔面の半分を血で染めて、犬神操だったモノは哄笑した。
 鈴のような少女の声に、邪な悪意が乗せられる。理不尽に踏み荒らされた花壇を眺めた
時のような、苛立ちを伴う不快感が七夕の総身を駆け巡る。
「そのツラで、汚らしく喋るんじゃねえ……」
 あれだけ嫌っていた少女なのに。
 操を穢す隻眼王に対し、煮え滾るような怒りが湧き上がって来た。


「――この身体は素晴らしいぞ、獅条。半妖の雌ということを差し引いても、これ以上の
素体はない。貴様に殺されてから三人ほど試したが、どれもクズだった。五分と持たずに
崩壊する。だのに、この雌ときたらどうだ? 成り代わるのに時間は掛かったが、見ろ」
 瞬間、操の身体は七夕の視界から消え失せる。
 攻撃は天井から飛来した。完全に意の外から繰り出された疾風の如き蹴撃を、七夕は歴
戦の勘だけを頼りに身を捩り、横っ飛びすることでかわした。
 蹴り足が畳をブチ抜き、建材を破砕する轟音と共に和室の床が崩れ落ちる。
 粉塵が舞い、碌に利かなくなった視界の中で、七夕は見た。
 炯々と紅く光る――人狼の眼光を。


「この通り、全身隅々にまでオレの意思が行き渡っている。この雌の身体……人狼と相性
がいいのか、それとも他にも理由があるのか。まぁ、そんなことはどうでもいい。オレは
ただ……貴様をブチ殺して、喰らってやるためだけに蘇って来たんだからなァッ!」
 赤い眼光がブレる。
 操を乗っ取った隻眼王が、弾丸のように爆ぜて一直線に向かってくる。
 昨夜戦った変異人狼の姿よりも、操の身体を繰る今の方が戦闘力では劣っているだろう。
 そんな考えは浅慮に過ぎた。武術を嗜み、鍛えぬかれた犬神の体躯。刻み込まれた熟練
の技が、落ちた膂力を補完する。加えて効率よく筋肉を駆動させる軽い矮躯は、速度にお
いてならば以前の隻眼王すらをも上回る。
 七夕は胸元から取り出した短冊を三枚纏めて投げつける。前方で散開した紙片は中空で
静止して、正三角形の結界を展開した。
 紫電が弾け、隻眼王の突進を一時阻む。再び掻き消えた少女の身体は、結界を迂回して
 七夕の側面から襲撃してきた。細腕の先で鋭き爪がギラリと光る。
 神風の如き爪撃が、少年の身体を無残に引き裂いたかに見えた。
 しかし……爪を濡らす紅が、朝露のように儚く消える。
 少女は驚きもせずに『幻』の符を握り潰し旋回、独楽のような回転蹴りで後方を薙ぎ払
った。
 背後から『炎』を叩き込もうと、迫り寄っていた七夕は軽く舌を打ち、跳躍によって間
合いを離す。さすがに同じ策は通用しないらしい。


『憑依型魔性変異』
 慙愧無念によって『変異』が怨霊と化す事例は稀にある。
 だが、奇しくも隻眼王自身が言ったとおり『憑依』に成功する確率は殆ど零と言ってい
い。邪悪な魂を許容できず、肉体が崩れてしまうのがオチだ。
 憑依を試みる度に怨霊は薄くなり、どんなに恨みが強くとも三回で消滅する。
 四回目の憑依を可能にした隻眼王の妄執もさることながら、殊に異常なのは隻眼王を受
け入れた操の肉体の方である。
 狼と犬、似た性質を備えているといえ『滅び』そのものである怨霊を体内に取り入れて
馴染ませてしまうなど通常では考えられない。
『憑依型魔性変異』とは、そも、死んだ『変異』が別の『変異』に憑依するという、外側
から見ればあまり意味のない現象である。ただ、変異の特性が合成されることがあるため
に戦術上注意が必要なのだと七夕は教わった。
 なのに――これは一体、どういうことかと思った。
 この世界では、ありえないことがありえない。
 だが、一見不条理に見える妖術がその実、深遠なる理によって構築されているのと同様
に、事象には必ず発生するだけに足る理由がある。それはイワトにおいても同じことだ。
 ……一つだけ仮説がある。
 事例の少ない『憑依型』が、何故見習いの七夕にすら知られているのかを考えてみれば
いい。答えは一つ。
 過去に百鬼でも名だたる戦士が怨霊に憑かれて変異と化したという、あまりにも鮮烈な
記録があるためだった。
 獅条の『滅び』への高い親和性が、逆に仇となった稀有な事例。
 つまり、犬神操は獅条と同様に『滅び』の気に高度な適応能力を持っている可能性があ
る。間合いを調整しながらそこまで推測した七夕だったが、それが状況を一変させる切り
札にはならないと判じると、思考を切り捨てて戦闘に専心することにした。


 不幸中の幸いで、このような事態をすでに想定済みであった七夕は、考えられる限り最
善の装備を整えて、ここに臨んでいる。
 威力、汎用性ともに高い『火』を十五。『切』を十五。
 回避、奇襲に適した『幻』を十。
 『矢』を五、『日』を三、『刀』を三。
 『土』、『皮』、『寸』、『石』をそれぞれ一枚ずつ。
 さらに無地を含む幾種類もの符を合わせ、合計六十六の手札を全身に秘め隠している。
 画数限界は五画。合成可能な符は三枚まで。効果は術師が字に込める念によって、千差
万別に変化する。
『字転』――文字の組み合わせで幾通りもの妖術を駆使する七夕は、獅条でも屈指の奇術
師と呼んで差し支えない。
 妖魔との戦闘時において、獅条七夕の思考力は加速される。
 瞳孔が縦に裂け、妖魔に近しい身体能力を発揮し、嗜虐の微笑を浮かべる姿は正に獅条
の始祖たる『鬼』そのものだが、その精神は暴虐の衝動に流されることなくむしろ澄み渡
っていた。
 逆巻く風を生み出して迫る標的へ向けて、脊髄反射で指先が投じたのは、『火』の一字
が刻まれた短冊である。放たれた札は火球と化して標的へと飛んでいく。
 隻眼王は一瞬怯んだものの、易々とかわして再び襲い掛かって来た。
 七夕の頭上へと半妖の爪が振り下ろされる。
 血の華が咲いた。
 七夕へと肉薄した隻眼王の腕から突如鮮血が迸ったのである。
「グゥ……ッ!?」
 たまらず退いた隻眼王は、苦痛に歪んだ少女の顔で、利腕から不可視の『何か』を引き
 抜いた。穿たれた孔から惨たらしく血が噴出す。
 嚇怒の唸りと共に握り潰された二枚の札は『幻』と『矢』だ。視認可能な火球を隠れ蓑
に、不可視の矢が標的の腕を貫いたのである。
『字転』の奇術は終わらない。すかさず踏み込んだ七夕は少女の肢体を両断すべく『切』
を真一文字に薙ぎ払う。
 生死の狭間を断ち切る呪符は、文字通りの紙一重。体勢を崩しながらも際どく回避した
隻眼王。
 その結末さえも読みきっていたのか、振り切った腕が反転する。
 そして少女の頸を切断する軌道で、断罪の呪符が投擲された。
「ガァッ――!」
 再び迫る死を目前に、少女は咆哮した。しなやかな獣の体躯が地に無理矢理手を付いて
回避軌道を捻じ曲げる。咄嗟の機転は犬神の身体に染み付いたものか、もしくは人狼の本
能か。ともかく、刹那の極みで急所を外すことが出来る筈だった。
 飛来する紙片が、加速しなかったならば(、、、、、、、、、、)
「言った筈だぜ隻眼王、何度でも殺してやるってな」
 時間差で起動した二枚の呪符――『早』の文字が、七夕の指先で閃いていた。


 結果から言えば『日』と『十』の追加符、術で加速された『切』の札は目標に命中しな
かった。風のように部屋に飛び込んできた第三者が、操の身体を突き飛ばしたからだ。
「チッ、あんたかよ」
「こ……これはどういうことですか!」
 部屋を震わせる勢いで怒声を上げたのは、玉緒だった。部屋の異状に気づき、主の下へ
馳せ参じたというところなのだろうが……。
「犬神操は変異した。よって被害が拡大する前に始末する。これは犬神操本人から、正式
に依頼を受けたもんだ」
「馬鹿なことを……!」
 玉緒の視線が操に向く。それはもう彼女の主などではない。
 だが人狼の怨霊は、自身の姿を逆手に取った悪辣な手段を選択した。
「信じるな、玉緒。私が闇などに飲まれると思うか」
 傲然と言い放つ様は、犬神操そのものだった。
「いいえ、思いません」
 強き主を妄信する玉緒の態度は、操とほんの少し会話しただけの七夕にも、当然のもの
のように思えた。
 皮肉にも硬い信頼関係に裏打ちされた絆こそが、現状最大の障害となっている。
 信頼の絆を踏み躙る、薄汚い狼野郎を断じて許すわけにはいかなかった。
 きっ、と七夕を睨み付けた玉緒は犬神の本性を露わにし、妖魔の爪牙を見せ付けた。
「妙な真似をすれば容赦はしないと……警告したでしょうに。狂いましたか、御客人」
「狂ったのはあんたの主人の方だ。騙されてるぜ、あんた」
「それを信用するとでも?」
 七夕は諦観の意を込めて、皮肉に笑った。
「……だな、何を言っても無駄か。じゃあ仕方ねえ。邪魔をする奴らは、纏めてブチのめ
すだけだ」
「殺し屋風情が大きな口を叩くものです……」
 牙を剥いて襲い来る玉緒の背後で、操の顔が黒い笑みを浮かべていた。


 今、七夕が懸念しているものは目の前の二匹などではなく、やがて来るだろう犬神族の
面々である。玉緒をして犬神全体の態度を予測するなら、最悪の展開は言わずもがなだ。
 だが、その最悪にしても全く予想だにしなかったわけではないと、七夕は玉緒の爪と切
り結びながら戦略思考を展開する。
 今や七夕の手には『刀』の札から具現した長刀が握られている。イメージしたものは漱
四と同じ日本刀。『字転』の肝は、術式の結果を鮮明に思い浮かべることにある。その点、
見知った兄の武具であれば申し分ない。
 攻撃範囲が狭く、手加減の利かぬ『切』よりも今の状況には合致した獲物といえた。
 一合二合と、硬度を競い合うように打ち合わされる爪と刀。反撃に移る暇もあらばこそ、
玉緒の体術は操以上の軽捷さを発揮して連撃を放つ。逆上がりに一回転する派手な前蹴り
に引き続き、宙で回転軸が歪曲し、斜め上方から延髄蹴りが落ちてくる。
 さしもの七夕も防御回避に集中するほかはなく、防戦一方の有様となった。
 これで隻眼王が攻勢に加われば、最早被弾は免れぬ状況。


 しかしそれでも、七夕には一厘の焦燥もありはしなかった。この状況は予め想定してい
た最悪には及ばず、その最悪が訪れたとしても突破する準備は抜かりなく用意してある。
 人などとは比べるべくもない戦闘能力を誇る妖魔。それがさらに強化された『変異』を
相手取り討滅してきた獅条ならば、夜の眷属たる半獣人が日中幾ら群れたところで物の数
ではない。
 体術で敵わず、身体能力で劣る――そんな諸々はあたりまえの前提条件でしかないのだ。
 その差を埋めて目標を殺す術を身に付けた者達を、人は獅条の百鬼と呼ぶのだから。


「お嬢!」
 吼えた玉緒が左に弾ける。応えた操――隻眼王は右方向から七夕へと踊りかかった。
 颶風と化した隻眼王。迫る牙を片腕で振るった長刀が受けて火花を散らす。燦と煌く刀
身に、逆側から挟撃をかける玉緒の姿が映りこむ。
 相対するは一枚の呪符。そんな紙切れ意に介さぬと、相殺覚悟の爪撃が迫る。
 だが哀しいかな、この獣は符術の恐ろしさを何一つ理解していない。命一つ賭けた程度
で、獅条七夕を殺傷できると愚かにも本気で信じ込んでいる。
 短冊が肩口に触れるのと、爪が七夕の頸に肉薄したのは正に同時のことであった。
『炎』が身体を焼き尽くそうと、『切』が腹を両断しようと。慣性の法則にしたがって玉
 緒の爪は振り下ろされ、七夕の頸を切断せしめるに違いない――そう思われた。
「止まれ。てめえはそこで引っ込んでいろ」
 七夕の言葉通り、玉緒の身体は瞬間、不自然に停止した。まるで彼女の周りだけ、時が
凍り付いてしまったようだった。
 ぴくりとも動かぬままに倒れ伏した彼女には、『止』の札が貼り付けられていた……。


 刀による防御、呪符による束縛を同時にこなした七夕は、さらに刀を引くや綺麗に身体
を旋回させて、刀身に噛み付いていた隻眼王に廻し蹴りを打ち込んだ。ここまでの一連の
動作は流水のように淀みなく奔り、無駄な駆動なく連携している。
 奇術師の掌の上、計算尽くの一幕だった。
 勢いよく吹き飛んだものの、猫のように受身を取り四本足で着地を決めた隻眼王。
 勝負は再び振り出しに戻り、一刀一足の間合いでもって凝視の火花が散らされる。


「邪魔は消えたぜ。月の加護を得られない獣人族なんざ、相手にもならねえな」
 嘲弄するように言って、七夕は右手の長刀をしごくように一振りした。刀はたちまち輪
郭を失って、紙片へと戻り消える。
 この相手には不慣れな獲物を使ってまで、殺さぬよう手加減を加える必要がない。
であれば『切』なり『炎』なりの一撃必、殺で片を付け、早急に敵地から離脱するのが
上策。
 後継者を失う犬神との折衝は、上の御歴々に任せればいい。
 正直なところ、一安心していた。この分なら『隻眼王が犬神操に成り代わり、犬神一族
を巻き込む形で獅条と敵対する』という最悪の展開は免れそうだ。
 憑依された操の身体が、思ったよりも強化されていないのが僥倖だった。元から十分に
強い操が『変異』すれば、昼間でも厄介な強敵になると警戒していたのだが……。
 どうやら取り越し苦労だったらしい。心情に幾許か釈然としないものを残しながらも、
事例の少ない『憑依型』のことと納得し、七夕は後味の悪い仕事にケリをつけるべく一歩
を踏み出した。


「つまらねえ出し物だった、幕にしようぜ隻眼王。てめえを殺して、一件落着だ」
「……オレを殺す、だと?」
「あぁ、殺す。今度は蘇って来れねえように、魂魄まで焼き尽くしてやるよ」
 犬神操の身体ごと、隻眼王を討ち滅ぼす。七夕に迷いはなかった。あるいは操が人を喰
っていなかったなら、救う道もあったかもしれない……。
 それも今や詮無い過去。世界の法、獅条の掟、なにより七夕自身の信念に照らし、犬神
操は有罪だ。自分の意思でなかろうと、人を殺した妖怪は、速やかに始末せねばならない。
「――――」
 そこで一条の違和感を感じた。
 ……決定的な何かを間違えてしまったような、ぴりぴりとした異物感。
 けれど頭の引っかかりを検証する前に、目前の状況は最悪の変化を始めていた。


「オレは死なんぞ……獅条。貴様を喰らい殺し、我等の恨みを濯ぐまでは!」
 怨嗟の咆哮を上げて、少女の髪が総毛だった。鼻を突く獣臭が強くなり、爆発じみた勢
いで妖力がさらに膨れ上がる。手足の先に灰色の体毛が生え、頭髪の中から尖った妖獣の
耳朶が顕れる。
 最後に獣人の殺戮兵装たる爪牙が、禍々しく変貌を遂げた。
 完全に獣化することなく、人の面影を留めたままで……牙は口唇からはみ出して光り、
爪は見た目こそ変わらぬものの黒い妖気を帯びて、えげつない輝きを湛えている。
「ハァァァァ……」
 瘴気の吐息を吐き出しながら、憎悪を宿す隻眼が七夕を見据える。眼帯が外れた左目に
は、悪寒をもよおす暗い孔が、奈落のように開いていた。


「……ッ! 真ッ昼間から、獣化するだと……!?」
 いま自分が目にしているものが信じられず、七夕は愕然と呟いた。
 半妖である犬神も、妖怪である人狼も、月の恩寵に縋る夜の眷属である。
 月光の届かぬ日中に、真の姿を取り戻すなど聞いたこともない。
 だが、この世界では『ありえない』などという戯言は何の意味も持ち得ない。七夕は乱
れる思考を必死で束ね、一つの仮説を導き出した。


『憑依型』の特徴は、妖魔同士の特性が合成されること……。
 隻眼王の、人狼を超える異形へと変態する特性。
 犬神操の、陽光の中でも半獣の力を発揮できる特性。
 両者が組み合わさった結果が……目前で起こった怪異の正体だった。
 強化されていないなど、見当違いの妄想でしかなかった。新たな身体を手に入れた隻眼
王は、あの夜よりも、これ以上ないほどに強化されていたのである。
 変異獣人の超膂力に、犬神の武術体系が加われば……これはもう起きながらにして見る
悪夢でしかない。今や雄々しい半獣の姿へと転じた少女は、全身を震わせ上向きながら、
高く高く遠吠えを響き渡らせた。


「ぁ、あぁ……そんな、お嬢……」
 力ない呻きは、呪符に束縛され倒れ伏す玉緒のものだった。
「見ての通りだ、こいつはもう犬神操なんかじゃねえ。……諦めろ」
 これで犬神の連中も、操の変異に疑いを持つことはなくなったわけだ。時間制限がなく
なったのはありがたいが、状況は悪化している。
 まさか日中に獣化されるとは……完全に計算外だった。だが、やるしかない。ここで隻
眼王を始末してしまわなければ、さらなる被害が出てしまう。
「上等だ……! 来やがれッ!」
 目標の戦力向上を織り込んだ上で十分な勝機があると踏んだ七夕は、未だ脳裏にこびり
付く違和感を振り落とすかのように叫び、迎撃体勢に入った。
(ビビっているのか、俺は……? それとも、犬神操を殺すのに躊躇いがあるとでも?)
 馬鹿げている。今までにだって、似た状況に立たされたことは幾度となくある。なのに
どうして今回ばかり、こんなにも嫌な感触が付き纏うのか。
 戦闘中の迷いは死に直結する。その鉄則を辛うじて守らせているものは、今日までの訓
練と経験、そして宿敵との決着に燃え滾る闘争本能だった。


「ガァァァッ!」
 獣が唸り、隻眼王が掻き消える。元より視認が困難なほどの速度であったものが、獣化
によってさらに倍加。最早尋常な方法では、まともに切り結ぶことすら無理な話。
 そこで七夕は『目』の札を自身の身体に貼り付けることにより、一時視力を強化する。
 超視力の両眼を得た七夕は、縦横無尽に室内を跳ね回り、今正に真上から必殺の蹴りを
放たんとする半獣の姿を、あやまたず捉えていた。
 いかに視力が向上しようと、身体能力そのものが変化したわけではない。身を捩り地を
蹴ることでかわしはしたものの、腕と頬から血が噴出す。
 蹴りは床下の大地までを無残に抉る。転瞬、再び飛翔した隻眼王は追撃を仕掛けるべく
虚空で宙転し――。
 突如、真下から出現した炎の渦に飲み込まれた。
 七夕は蹴りの着弾地点から退避するにあたって、置き土産とばかりに『炎』の呪符を足
元に貼り付けていたのである。獅条七夕にとって、迎撃体勢とは罠の設置に他ならない。
 果たして目論見どおり発動した呪符の罠は、炎柱を吹き上がらせて燃え上がっている。


「……ぁ、ぁぁ……」
 玉緒の声なき絶叫を意識の端で聞きながら、七夕は警戒を緩めていなかった。
 密着状態から放たれた『炎』ですら耐久して見せた宿敵が、この程度で滅びてくれる道
理がない。
 しかしその七夕にしてみても、妖力で編まれた炎の渦が火種も残さず消え失せて、焼け
焦げた屋敷がつまびらかになった時……まるで損傷を受けた形跡もなく、平然と佇立する
少女の姿を見止めて怖気を覚えた。
 薄い妖力で全身を覆い防護する……明らかに野生の本能のみでは到達できぬ絶技。
 変異の強大な妖力と、操の技術経験が合わさって初めて可能となる離れ業であった。


「お嬢……もう……もうお止めください。どうして、貴女が、そんな――」
 玉緒は弱々しくも上体を起こし、想いを振り絞るように懇願の言葉に換えた。
 呪符の束縛を受けてなお、これほどまでに言葉を紡ぐことができるとは……。
『字転』の呵責ない威力を知り尽くしている七夕には、彼女の必死の程が痛いほどに伝わ
ってきた。
 懸命の言葉が届いたのか、やおら隻眼王の挙動が停止した。
 隻眼に宿る憎悪の炎に、理性の光が取って代わる。
「う、ぅぅうぅうぅぅ……!」
 おぞましい鉤爪で額を押さえ、がちがちと歯を噛み合わせる『操』
 どのような理屈なのか、今この時。彼女は確かに隻眼王ではなく、犬神操に戻っていた。
「……何をしている獅条……! 早く止めを刺せ……!」
 操の精神力はほんの一時とはいえ、抗することが不可能な筈の『憑依』すらをも凌駕し
た。凌駕して……何を言うかと思えば、泣き言でも、ましてや命乞いでもなく、自身を殺
さんとする殺し屋への叱咤激励だった。
 肌が粟立った。もう、呆れ果てて溜息しか出なかった。
 次に怒りが湧いてきた。おまえを殺してやると偉そうに約束した俺は、何をビクついて
二の足を踏んでいるのかと。
「は。凄ぇ奴だよ……てめえは」
 最後まで強かった彼女に引導を渡すべく、七夕は三枚の呪符を構えた。
『火』
『火』
『刀』
 真横に伸ばした右腕から、渦巻く炎と共に顕現したものは、
一本の、燃え盛る日本刀だった。
 炎の力を秘めたこの『炎刀』ならば、未だ禍々しく操の身体を覆う妖気の防御も、諸共
に貫けよう。
 心臓を貫いた上で『炎』を内側から、爆裂させてやれば……今度こそ決着は付く。
 操の理性が隻眼王を一時押さえつけている今こそが、最初で最後の機会だった。


「あばよ犬神。手間取って悪かったな」
「まったくだ。殺す相手に協力してもらってどうする。ふん……じゃあな、獅条。
 今更だが、もっと早く会っていればと思うよ。そうしたら……きっとさ」
 言い差した言葉はしかし続かず……七夕が後を継いだ。
「ああ、きっと喧嘩ばかりしてただろうよ。むかつくもんな、おまえ」
「はっ、ほざけ……おまえは馬鹿野郎だ」
 意図の不明瞭な言葉を残し、それきり操は黙り込んだ。もう、限界が近いのだろう。
 話しながらも、刺突に適した間合いの一歩外まで近づいていた七夕は、腰を落とし、刀
を引いて――
 足首を捕まれた(、、、、、、、)
「!? て、てめぇ……!」
 ぎりぎりと万力のように締め付ける掌は、凄まじい形相で床を這う玉緒のものだった。
「お嬢を……殺させるわけには参りません……!」
 鬼気迫るとは、この時の彼女にこそ相応しい比喩だった。
 全身を束縛する呪符に苛まれながら、それに抗って数メートルを這い進む……言葉にす
れば、ただそれだけの行動。だが、そこにどれだけの苦痛を伴なうものかといえば、一歩
を進むごとに全身の骨という骨が砕ける痛み、そういってもなお足りまい。
 狂気の沙汰以外の何物でもなかった。
「畜生が! 犬神ってのは、どいつもこいつも――!」
 無理矢理歩を進めようとするも、脚が大岩に挟まれているかのように動かない。
 足首の骨が軋み、悲鳴を上げている。凄まじい握力だった。
「離しません! 離すものですか……! お嬢を殺すというのなら、まず私の息の根を止
めなさい!」
 例え手首を落とされようと、命続く限り主を護る。そう決意している眼だった。
 これは……駄目だと思った。この忠犬は、刀で斬り殺しても足を離さないだろう。
 意を決した七夕は『炎刀』を上半身の捻りだけで振りかぶり、操の心臓目掛け投擲した。
 確実性は損なわれるが、迷っている暇はない。


 しかしそんな決意も、次の瞬間無為に帰した。
 かっ、と隻眼を見開いた操が顎を開き、燃え盛る刀を牙で挟み受けたのである。
「……遅かったか!」
 七夕は叫ぶや、片腕を前に突き出し『炎』を起爆させた。
 噛み砕かれた『炎刀』が操の両頬の脇で爆発し、家屋を爆破炎上させる。妖気の炎は燃
え続けることなくいずれ消えるが、無論破壊の痕跡が消えることはない。古くから建って
いただろうこの家も、修復することあたわず死に逝きつつある。


「グウゥゥゥゥ……」
 火葬されゆく家屋の中で、再び隻眼王が牙を剥く。隻眼が狙うのは七夕ではなく……
「宿主の干渉を許したのは、女……貴様のせいか!」
「お嬢……そんな奴に負けてはなりません! どうか、どうか正気にお戻り下さい!」
 必死の叫びに、隻眼王はまたも頭を掻き抱き悶えたものの……残念ながら彼女の言葉は
今一歩、操の魂を揺り起こすには至らなかった。


「危険だ。女、貴様はオレにとって限りなく危険だ。今、ここで確実に殺す」
 玉緒に死を宣言した隻眼王は、爪を振り上げ一跳びで迫る。
 ここで七夕には取り得る二通りの行動、二つの選択肢があった。
 一つは玉緒が隻眼王に殺されている間隙を突き、残る呪符を総動員して起死回生を計る
というものである。片足が殺されている今であっても、間違いなく隻眼王の息の根を止め
ることが出来る――そう確信できるほどに、会心の秘策。
 これに比して残されたもう一つの選択肢は、あまりにも感情に流された、愚にも付かな
い駄策であった。妖魔退治の玄人、百鬼の者であれば、決して迷うことなどありはすまい。
 昨日までの七夕であれば選択肢など思考の隅にすら上がることなく、迷わず玉緒を捨て
駒にしていたことだろう。
 だが……あえて七夕は、愚かにも駄策を選択した。
 すなわち、玉緒の前に両手を広げて飛び込んで――隻眼王の爪をその身で受け止めたの
である。
 仕方がなかった。他にどうしようもなかった。あんな生き様を見せ付けられて、何も感
じないなんて――それが玄人だというのなら、そんなものになりたくはない。
 馬鹿な野郎だと、自分でも笑ってしまうのだが。
 犬神どもに触発される程度には、獅条七夕も青かったらしい。


「――おかげでこのザマだ。俺もヤキが回ったもんだぜ……似合わない真似は……するも
んじゃねえな……」
 腹部に異物が突き刺さる感触。続けて灼熱のような激痛が迸り、度を越した痛みは全身
を麻酔じみた虚脱感で満たしていく。ごぼ、と吐き出した紅い血は、もう笑うしかないほ
どに足元を濡らしていた。
 白く歪んでいく視界の先で、ぱちぱちと結界の紫電が弾ぜている。バチンと電源が切れ
るように目蓋が落ち、それも見えなくなる。
 世界が暗転し……目蓋の裏に、片手の人差し指を立てて怒る、あの人の幻を見た。


 まったく、どうして君はそうやって無茶を――


 意識が断絶する直前、
(ああ。約束破ったら、怒られっちまうなあ――)
 そんなことを、思った。