第五章 食人の鬼



 宵はさらに更けていき、点在する家々の明かりも粗方が消え失せた頃……
 闇を蠢くものどもは、人にあらざる妖ばかりとなる。
 夜の校舎を幽鬼のように漫ろ歩く人影は、巷で食人鬼と呼ばれる妖魔のものであった。


 仮に身体の構成部品が人そのままであったとしても、同族を自覚的に喰い殺した時点で、
もうそれは人とは呼べぬものに堕する。
 例えば殺人鬼。
 例えば吸血鬼。
 ――例えば食人鬼。
 古来より、人の倫理から外れる所業を成し、業を背負った人間を――『鬼』と呼ぶ。


 深夜の二時。校舎には音がなく、天井から等間隔でぶら下がる夜光石の淡く白い灯りだ
けが、長い廊下をぼんやりと虚ろに照らし上げていた。
 窓から這入りこんだのだろう、ぬらりと湿気た風が肌を這い回って纏わり付く。
 温くて気持ちが悪いのに、何故か汗は掻かない。思えば、あれから一滴の汗も掻いてい
ないことに気付く。今年一番だという熱帯夜も、もう暑いとも思わない。思えない。
 そんなつまらない生理現象から、身体の変化を今更ながらに実感した。
 もう――縁日で貰った団扇を必死に扇いで、腕が疲れたと嘆くこともない。
 もう――風鈴の奏でる旋律に、一時の涼を得ることもない。
 ああ、なんて素晴らしい身体だろう。なのに、どうして涙がとめどなく頬を伝うのか。
 その理由も、今は遠く思い出せなかった。


 ただ、酷く渇いていた。単なる空腹とは比べ物にならない、抗い難い飢餓感がずっとず
っと付き纏っている。身体を癒すためにも、今は食餌を摂らなければならなかった。
 すでに滅びたモノを幾ら喰ったところで意味がない。生気に満ちた動物に、牙を剥いて
喰らい付き、恐怖や愛憎といった感情の迸りを熱い血潮と諸共に取り込んでこそ、この身
の養分となるのだから。
 とりわけ食物に適しているのが人間だ。人を喰った後では、他の獣など喰えたものでは
ない。あの甘く芳醇な味わいを思い返すだけで、悦楽の電気刺激が脊髄を駆け上る。


 ごくりと喉を鳴らし、早足になって廊下を歩く。
 やがて廊下を抜けると『巣』はもう目の前だった。蜘蛛の巣状に張り巡らされた結界を
もどかしげに解いていく。単なる物理的な障壁としての機能のみならず、脳の認識機能を
狂わせて意識を逸らす不認知の幻覚結界。
 闇雲に喰らうばかりではすぐにでも捕捉されてしまう。そのために用意した『巣』
中に貯蔵しておいた餌を思うと、口内に期待の唾液が溢れてくるのが分かる。
 古い引き戸を開くのに、鋭い爪は邪魔だ。少しだけ苦労して開ける。
 饐えた臭いがする倉庫の中には、女生徒が二人、濁った瞳で座り込んでいた。
 四肢を、何か白い縄のようなもので束縛されている。
『二人』というのが食餌を美味しくする秘訣だった。友人が目の前で、無残に食われてい
く様を見せ付けてやれば……その恐怖は極上のスパイスとして、蕩けるように甘い人肉に、
更なる深い味わいを加える。
 口唇からはみ出した牙の隙間から、くすくすと喜悦の笑いが漏れてくる。
 一声命じると、女生徒たちの濁った瞳にたちまち理性の光が灯り――


「……ぇ……ひ、っ」
 状況を理解したのか、顔面一杯に恐怖を貼り付けて、彼女たちは束縛された身体を暴れ
させた。けれど縄はびくともせず、二人はぼろぼろと涙を零して、命乞いを繰り返した。
 なんて可哀想な子たちだろうか。何の咎もなく……ただ偶然、捕食者の目に止まっただ
けの彼女たちは、きっとあったに違いない輝かしい未来を、ここで理不尽に奪い尽くされ
てしまうのだ。
 なんて可哀想で――美味しそうな。
 食人鬼は、愛惜の表情で獲物に圧し掛かり……柔らかい胸に牙を突き立てた。
 魂消るような絶叫の中、狂おしく甘い鮮血が口の中に溢れ返っていく。


 許しを乞う嗚咽の声は、二人を貪り尽くした後も……いつまでも巣の中に残留していた。


  *


 長く暗い夜が明けて。
 七夕を欠いた獅条家高校組の二人は、昨夜の打ち合わせどおり朝早くに登校し、朝礼の
時間を見計らって三年四組の教室へとやってきた。
 耳のいい二人は、連絡事項を告げる担任の声を、廊下にいながらにして聞き取ることが
出来た。
「……佐久間と桜井が、放課後から家に戻っていないそうだ。心当たりのある者は、後で
職員室まで来るように」
 重い雰囲気。新たな行方不明者が出たことは百鬼衆の定期連絡で知ってはいたが。それ
がまさか、このクラスからだとは……この符合には、何か意味があるのだろうか。
「八斗……」
「うん」
 顔を見合わせて頷くと、九葉は教室の扉を開けて中に入っていった。
 その後を、八斗が続く。
「失礼します、少しよろしいでしょうか」
 九葉の言葉に担任教師は首肯を返し、二人を招き入れた。
 教室を見回すと、随分空席が目立っているようだった。人狼の犠牲者を除く行方不明者
八人の内、三名が三年四組に在籍している生徒である。二人増えたから、これで実に五名
がこのクラスから姿を消しているということになる。
 やはりこのクラスには……何かがあるとしか思えなかった。
「犬神操……さんは欠席ですか?」
「いいえ。ついさっきまでいましたよ」
 九葉の問いに答えたのは、七夕の友人、陽香だった。彼女もこのクラスの生徒であった
らしい。九葉はあからさまに嫌な顔をする。やけに兄に馴れ馴れしいこの女を、九葉は快
く思っていなかった。それが嫉妬と呼ばれる感情であることを、自覚してはいないものの。
「というと?」
 悪くなりかけた雰囲気に割って入ったのは八斗。
「君たちが来るちょっと前に、そこの窓から飛び出して行っちゃいました。……なにか疚
しいことでもあるのかもしれませんね」
 九葉は言質を取るべく担任を睨みつけ、返答を得たことでようやく納得した。


『変異』がわざわざ学校に登校してくるわけがない。なら、犬神操は七夕を倒した『変異』
ではない……ということか。昨日の一件を当然彼女も知っているわけで、獅条と鉢合わせ
になるのを避けた、とも考えられる。
 ここでこれ以上、有益な情報を得られるとは思えない。『変異』でなくとも、犬神操は
重要な情報源になり得る人物だ。校舎内を見回りつつ、彼女を探すのがいいだろう。
 そう結論を出した九葉は、失礼しましたと一礼して、教室から踵を返した。
「ちょっと待って。七夕くんは? 今日は一緒じゃないんですか?」
 耳障りな声が九葉の神経を苛立たせた。
「貴方には関係ありません。……行きましょう、八斗。ここにはもう用はないわ」
「こ、九葉ぁ」
 女性陣二人に挟まれた八斗が情けない声を上げる。
「ごめんなさい先輩。今日、九葉は機嫌悪くて」
「もしかして……七夕くんのことで? 何か、何か……あったの?」
 余裕が一気に消え失せて、陽香は怯えたような顔で問い質した。八斗の肩を掴む手は小
刻みに震えていて、彼女が本気で七夕の心配をしていることが伺える。
 再び行方不明者が出てしまった物騒な時だからこそ、彼女の焦燥具合にも得心がいく。
 ただの友人を心配するにしてはそれでもまだ大仰に過ぎるが、深雲陽香が獅条七夕に並
々ならぬ好意を抱いていることは、誰の目にも疑いようのない事実だから。
 知らぬは当人ばかり。その点に関しては、彼女にも同情の余地がある。よくもまあ、あ
んな朴念仁を好く女がいたものだと、九葉などは感心してしまう。
 だから気に入らないけれど、彼女には七夕の安否を知り、気遣う権利が確かにあった。
「ここで話す内容ではありません」
 それだけ言って、今度こそ九葉は振り返らずに廊下を真っ直ぐに歩いていく。
 苦笑した八斗が、陽香に付いて来るよう促すのを聞き止めて、九葉は軽く鼻を鳴らした。


    *


 陽香を加えた一行は、犬神操の妖気を探りつつ廊下を歩いていた。自覚的に妖気を絶っ
ているのか、もう学校にはいないのか、彼女の妖気はまるで感じ取ることが出来なかった。
「そう……そんなことがあったの」
 ことの顛末を八斗から聞いた陽香は胸に手を置いて、祈るように目を瞑る。
 何か……深く考え込んでいるような様子だった。
「昨夜は危険な状態でしたが、もう峠は越えましたのでご心配なく。今は治癒術を受けて
眠っています。今日一日は目を覚まさないでしょう。……お見舞いに来たいのなら、夕方
以降にお願いします」
 至極当然の思考を察した九葉は、先回りして釘を刺した。峠を越えたといっても、今は
恭二が付き切りで術を掛け続けているのだ。そんなところに行っても見舞いどころではあ
るまい。
「ええ……そうですね。分かりました、そうします」
 陽香は神妙に頷いた。
「じゃあ、貴方たちは二人だけで七夕くんの仇を取るつもりなんですね」
「はい、それがどうかしましたか?」
 九葉はきつい流し目を返した。
「それなら、私もお手伝いしますよ。七夕くんをそんな目に遭わせるなんて……とても許
せません。お仕置きしてあげなくちゃ――いけませんからね」
「私たちは素人の助けを必要としていません。先輩は何の役にも立たず、むしろ邪魔です。
 どうか教室にお戻りください」
 妙に凄みのある陽香に対し、懇切丁寧かつ強烈な悪意を込めて返答する九葉。
 負けじと陽香も皮肉を込めて言い返した。
「でも昨日は玄人二人で一日中捜査したのに、何も見つけられなかったんですよねぇ?」
「くっ……!」
 痛いところを突かれて、九葉は歯噛みして悔しがる。
「今日こそは手掛かりを見つけてみせます。だから足手まといを連れて行く余裕はないん
ですよ」
「意気込みだけで結果が変わるとでも? ここは一つ、貴方たちよりもこの学校をよく知
っている先輩を頼ってみても罰は当たりませんよ?」
「ねぇ九葉、先輩の言うことも一理あるかも――」
 取り成すように割り込んだ八斗だったが。
「八斗は黙ってて。ああ……そう言えば、先輩はもう高等部に通うのも四年目でいらっし
ゃいましたね。では確かに、この学校のことは誰よりもお詳しいのでしょう。
 分かりました。不本意ですが、ここは年の甲に頼らせていただきます」
「九葉ちゃん。貴女は今、言ってはならないことを言いました……」
 八斗の意見は黙殺。さらに凄まじい勢いで険悪な空気が形成されていく。
「うぅ……にいさん早く帰ってきて。僕はもうこの二人の板挟みには耐えられません」
 心労で胃がきりきりと痛む。計らずも兄の代役を果たす羽目になった八斗は、七夕の回
復を心より祈りつつ、今更ながらに兄の偉大さを噛み締めるのであった。


  *


 陽香の提案で職員室に寄った一行は、とある空き教室に集まって、拝借した葦原学院の
全体地図を広げた。
「こうして見ると、この学校も結構広いんですね」
 九葉は眼をぱちくりとさせる。
「そうですよー。色々と入り組んでますし、闇雲に回ったんじゃ一日かけても全部を調査
することなんて出来ません。ちゃんとこうやって、怪しそうなところに目星を付けて調べ
ないと」
 なるほど悔しいけれど陽香の言うことは正しい。昨日は学内調査よりも策敵に重きを置
いていたとはいえ、もっと効率よく捜査を進めるべきだった。
 素直に反省した九葉である。
「じゃあとりあえず、昨日調べた地点は除外していきましょうね」
 八斗と確認の言葉をやり取りしながら、該当地点に赤鉛筆で×印を刻んでいく陽香。高
等部と中等部の校舎内は粗方回ったので、大きな×を二つ付けた。
 残ったのは、武道館、武道館第一、第二倉庫、旧体育倉庫、各種部活動の部室。
 そして墓地である。
「うわ、結構見落としてたなぁ」
 頬を掻きながら苦笑する八斗。九葉は首肯し、対面の陽香に問いかけた。
「体育倉庫なんてあったんですね。……この辺は昨日調べた筈ですが、そんなものはなか
ったように思いますけど。まだ残っているんですか、この建物?」
「んー、残ってると思いますよ? 新しい倉庫が出来て長いこと放置されていたのでしょ
うから、一見して分からなかったのかも知れません。
 放棄された倉庫ですかー。うふふふ……なぁんか、怪しい予感がしちゃいますね」
「先輩の笑顔ほどではありません」
 赫怒の炎を背景効果に背負った陽香を完全無視し、九葉はしばし思考に没頭する。
 確かにそこにあるのに気付かなかった……本当にそうだろうか?
 人間よりも遥かに精度の高い五感を持つ獅条が、注意深く捜査していたにも関わらず?
「幻覚結界……」
 呟いて、八斗に視線を送る。
「か、かも」
 彼は慌てたように頷いた。
 結界といえば御薙のお家芸なのだが、獅条の中にも結界を張ることのできる能力者はい
る。つい先日のように『はぐれ』の大規模な群れを掃討する際などは、敵の逃走を防ぐた
めに必ずチームの中に結界師を組み入れるのが定石だ。
 人狼たちとの戦闘の折は、七夕がその役を代替していた。
 その効果の程は、九葉もよく知るところである。
 この場合は幻覚結界。つまり周囲の目を欺く幻術によって護られた『場』が形成されて
いる可能性が高い。
「さて。初めに調査する場所が、決まったようですね」


  *


 高等部一階の廊下を抜けた校舎裏に、件の倉庫は建っている。武道館と一緒に新しい倉
庫が建造されてからというもの実に十年の歳月、忘れ去られ放置された建物。
 いたるところが腐食し、苔生し……高く伸びた草叢に隠れ潜むようにして風雨に晒され
続けてきたのだろうその様は、死に瀕した老人のようでもある。
 半ば廃屋と化した倉庫は、今や食人鬼の餌場――幻覚結界の起点となっていた。
 校舎と倉庫の中間点。視界に入ったとしても、それをそれと認知することのできぬ幻覚
の領域を僅かに外れた、いわば妖魔の巣の門に当たる位置に。
 手招くように枝葉を伸ばす柳に凭れ掛かって、制服姿の少女が腕を束ねていた。


 廊下を抜けて校舎裏へとやってきた九葉は、少女の姿を認めるや凝然と立ち止まった。
 所々跳ねた栗色の癖毛。
 左右対称に金メッシュを入れて、左目を前髪で隠している。
 彼女は誰であろう探し求めていた当人――
「犬神……操」
 二人を守るように立ち塞がる八斗。絶句して口に手を当てる陽香。
 操が醸す強烈な殺意を思えば、三人の態度も無理もないものであった。


「――来たか。オレを探していたんだろう? 何をビクついてやがる。せっかく出てきて
やったってのに」
 男のような口調で嘲り嗤う『操』。この三年生のことは、何度か見かけたことがある。
 間違いなく犬神操本人だ。けど……姿形は同じでも、決定的に何かが違う。
 先までは隠していたのだろう、対峙しているだけで肌をひり付かせる禍々しい妖気の程
といい……何よりたった今、怪しいと睨んだこの場所に現れるとは――
 九葉は確信した。こいつが兄を殺しかけた『変異』に間違いないと。
 ぎり、と歯を軋らせて睨みつける。
「八斗、先輩をお願い」
「分かってる」
 八斗の返事を待つこともなく、九葉は操へと突進していた。
『変異』が何を考えて、このような論理的に不明瞭な行動を取るのか、そんなことは分か
らない。分からないが――やるべきことは一つだけだった。何を企んでいようと関係ない、
こいつを叩きのめしてしまえばそれで終わる。
 細かいことは始末してから考えればいい――!
 普段の冷静さも今はなく、九葉は完全に逆上していた。
 戦闘開始に伴い、通常時には見られない氷のような計算能力を発揮する七夕とは真逆に、
獅条九葉の戦闘スタイルは論理を捨て去り野生の本能に頼る、極めて荒々しいものである。
 土煙を上げて猛進する九葉は、操の顔面目掛けて容赦のない拳を繰り出した。
 操は邪悪な笑みを張り付かせたままで、危なげなく上体を逸らしてかわす。
 九葉の追撃は足元への水面蹴り。敵の回避を見越した見事な連携を、操は不自然な体勢
ながらも跳躍しかわし――のみならず宙で旋転、九葉への背中に強烈な踵蹴りを落とした。
「そんなの――!」
 九葉は岩盤を砕くような蹴りを受けてなお怯むことはなく、寧ろ好機とばかりに全身で
喰らい付く。
 攻撃直後、体勢の整わぬ操の襟を片手で掴んで引き寄せて、鳩尾に直突を叩き込んだ。
 メシッと骨が軋む嫌な手応えを残し、操の身体が浮き上がる。腹に風穴が開いてもおか
しくない一撃は、標的をしばしの間行動不能に陥らせてしまう。
 九葉はおもむろに襟を掴んだ手を離すと右腕を全身を使って振りかぶり、獅条でも特有
の強靭な身体能力、始祖たる鬼そのものの剛力で――全力で殴り付けた。


 掴む腕はなく、今度こそ操は弾け飛んでいく。並の妖魔なら粉微塵に砕け散るところだ
が……さすがに『変異』ともなれば、これで終わる相手ではなかった。
「九葉! 油断しないで!」
 怒りに導かれるまま、敵の損傷を確認することもなく止めを刺しに向かった九葉に、思
慮深い八斗から注意が飛ぶ。
 獅条八斗と獅条九葉。二人の戦闘陣形は九葉が前衛直接戦闘、八斗が後方支援に特化し
た形態であり、両者の特性を最も生かすことの出来るこれ以上ない組み合わせといえる。
 当然、広く状況を見て取れる八斗が全体の作戦を組み立て指揮を執る役割を負うわけで、
冷静さを欠いている九葉も、八斗の言葉には大人しく従い一時後退を余儀なくされた。
「落ち着いて九葉。急く必要はない、確実に決めよう」
 たったそれだけのやり取りで作戦行動の全てを了解した九葉は、さらに確実なる止めを
刺すべく『ある提案』を試みた。
「八斗、抜いて(、、、)
「…………分かった」
 ためらいながらも了承した八斗は、前傾し攻撃準備態勢を取った九葉の背中に、
 右手を挿し込んだ(、、、、、、、、)
「んっ……くぅ、っ」
 異物を無理やり挿入される物凄い感覚が痛覚神経を迸る。唇を噛んで激痛に耐える九葉。
 まるで幻影のように傷痕を残すことなく、ぬるりと背中に侵入した八斗の手は、九葉の
体内で目的の物を掴み取り、ゆっくりと慎重に抜き取った。
 ずるずると九葉の背中から出現したものは、楔。
 獅条八斗の妖力で構成される五寸釘に酷似した器具。蒼光を帯びた封印の楔が九葉の体
内には埋め込まれており、制御不能の潜在能力を常時抑制していたのであった。


 果たして敵方、犬神操は倒れ伏していた体勢から跳ね上がり、宙転して着地した。
 続けて制服の肩口を毟るように掴むや、惜しげもなくびりびりと破り捨てる。
「グゥゥゥ……」
 制服の下。切り裂かれたシャツとジーンズという軽装に転じた操は、怒りを隠そうとも
せず低く唸っている。
 楔を抜き放たれた九葉が地を蹴った。大地を爆発させる蹴り足で、弾丸のように爆ぜる。
 迎え撃つ操は『変異』と化した膂力を頼みに九葉の拳を払い落とそうと試みたが、
そんなことは不可能だ。先までの九葉であれば捌かれてしまったろうが、潜在能力を開
放した今、九葉の剛力は兄弟の中でも随一を誇る。
 容易く防御を突破して、操の胸に鉄杭じみた右拳を打ち込んだ九葉。たたらを踏む敵へ
とさらに踏み込んだ彼女は、まったく同じ箇所を狙い、突きの軌道で蹴りを放った。
 重く激しい破壊音が蹴撃の威力を代弁する。
 鉄筋コンクリートの校舎に深々と埋没した操へと、呵責ない拳打の嵐が降り注いだ。
 重く速い拳の嵐が、少女の身体を磔にする。


 格段に身体能力は上がっているものの、九葉の体術は流麗とは言い難かった。
 型はなく、技すらもなく、あらゆる武術を真っ向から否定する本能のみの闘争術式。
 地獄の悪鬼もかくやという暴虐ぶりを、冷や汗を流しながら見守る八斗。
 最早どちらが邪悪なる『変異』なのか、分からないような有様だった。


「……よし、完成」
 無論、八斗も茫と眺めていたわけではなく自分の仕事を確実にこなしていた。
 妖力で具現化した細く長い『針』を、一定の法則で地に刺して半径二メートル程の小円
を描く。
「九葉!」
 瓦礫の山を積み上げながら休むことなく乱舞を打ち込み続けていた九葉は、八斗の合図
を契機に標的を上空へ蹴り上げ――跳躍旋転、駄目押しの旋風蹴で弾き飛ばした。
 狂いなく円陣の中心に落とされた操の足元へ、八斗は九葉から引き抜いた封印具、
霊楔(クサビ)』を投擲した。
 霊楔は地に刺さるや眩く発光し、束縛の術式を起動。
 円陣から急速に紡ぎ出された妖気の糸が、敵の身体を雁字搦めに緊縛する――
妖針束縛陣(ようしんそくばくじん)』……本来医療術式である妖針術を戦闘向けに改良せしめた某流派の奥義で
ある。
 奥義とはいえ本来ならば効果の薄い簡易術式を、八斗は自身の妖気で生成した『針』と
『楔』を使用することによって超強力な封印術式に昇華してしまう。
 妖針術との併用を初めとする多種多様に応用可能な封印具を具現し、高位妖魔すら完全
束縛せしめる牢獄を造り出す封印の力。
 その性質から、獅条八斗固有の妖力はこう名付けられている。
『檻』、と。


「っ……くっ、ぁぁっ!」
 蒼白く光る糸が操の総身に食い込んで、ぎりぎりと縛り上げる。
 瑞々しい腿肉に、糸で裂かれた胸元に、淫虐な赤い裂傷が刻まれていく。
 想像を絶する激痛を味わっているだろう妖魔は、少女の声で絶叫を上げた。
 本来の奥義であれば、このまま膾切りに解体してしまうところだが……少年にはとても、
そんな残酷な行為は出来なかった。
 彼は未だ、一匹の『妖怪』すらも殺したことがないのだから。
 あえて切れ味を落とした糸は武器ではなく、あくまで拘束具として少女の肢体を蹂躙し、
死に至らしめることなく苦痛のみを与え続ける。
「……ふぅ」
 八斗が漏らした物憂げな溜息は、官能の吐息にも似ていた。


 九葉が止めを刺すべく走りこんでくる。この時、兄妹は完全に勝利を確信していた。
 かの妖魔が兄の結界を貫いたという事実を失念していたのは、経験の浅さによる油断か
らか、あるいは仇を討つべく燃え盛る復讐心ゆえか。
 ともかく、よもや鉄壁を誇る八斗の拘束術が破られるなどとは夢にも思っていなかった
二人は、敵の妖気が膨れ上がり突如姿が変貌して、身体に巻きついた妖糸を強引に引きち
ぎって見せるや、愕然と立ち竦んでしまった。
「……嘘。日中に獣化するなんて――」
 咆哮と共に、少女の身体に獣の特徴が表れる。本来ならば月光の下でしか存在できぬ真
の姿へと変化した操は、隙だらけで直立する九葉へと強襲を仕掛けた。
「九葉!」
 八斗が必死の叫びを上げる。
「……!」
 目を剥いた九葉は咄嗟に両腕で顔を庇ったものの、操は構わず鉤爪を振り降ろし、白い
肌を切り裂いた。続いて卓越した体術が流れるような前蹴りを放つ。
 防御を貫通した蹴撃は意趣返しのつもりか矮躯の胸元に炸裂し、九葉は先の一幕を再現
するように校舎の壁へと叩き付けられた。
「く……うっ」
 全身を巡る激痛。九葉は歯噛みする。あの兄を倒すほどの妖魔――甘く見ていい相手で
はなかった。獣化した操の膂力は今や九葉を軽く凌駕している。
「なるほど。これじゃあ兄さんのへっぽこ結界なんて、紙ですね……」
 非常に拙い状況だった。決して勝てない相手ではないが、このまま一気に押し切られる
と反撃する間もなくやられてしまう。
 悔しい……!
 準備さえ万端だったなら、こんな奴に負けるなんて絶対になかった筈なのに。
 苦渋と後悔の中で死すらも覚悟した九葉だったが、当然止めを刺しにくるであろう操は
しかし攻撃を仕掛けてこなかった。
 何を思ったのか、操は柳の枝を足場にさらに跳躍し――何処かへと飛び去ってしまった。


「えっ……逃げ、たの?」
 逃走する敵を呆然と見送った九葉は、命拾いしたことを喜ぶよりもまず訝しんだ。
 獰悪なる『変異』が、敵に止めを刺さずして逃げ去る理由が分からない。
 確かに九葉の攻撃は奴に軽くない負傷を与えていたのだが、仮にも名高い犬神の武術を
修めた者であれば、彼我戦力差を正確に見て取って臆せず止めを刺しに来るだろう。
 あの状況で逃げるなんて、まるきり素人の策だ。
 それに思い返せば――七夕も。
 敗北したというのに、止めを刺されていなかった。
(どういうこと……これは?)
 ともすると、この事件はそう容易く全貌を読み取れるようなものではないのかもしれな
い……。
 駆け寄ってくる八斗に無事だと視線で伝えながら、九葉はそんなことを考えた。


  *


 九葉の負傷を治療すべく、一行は倉庫を調査する前に一旦保健室へと赴いた。幸い九葉
の怪我は深刻なものではなく、薬による消毒と八斗の『針』、九葉に生来備わっている自
己治癒力によって数時間ほどで完治する程度のものだった。
「……問題ありません。動けます」
 両腕と胸に包帯を巻いた九葉は、ベッドから起き上がろうとした。
「へえ、本当に?」
「〜〜っ!」
 八斗は九葉の胸をぐい、と親指で押し込み、強がりを看破して見せる。
 彼女には今少しの安静が必要だった。
「ほら、無理しない。幾ら九葉でも、あと一時間は寝てないと駄目だよ」
「でも……いえ、分かりました。では私を置いて調査を進めてください」
 八斗は首を横に振った。
「昼間でも襲われる可能性がある以上、僕は九葉の傍にいなきゃならない。九葉を守るた
めばかりじゃなくて、僕自身の自衛のためにもね。自慢じゃないけど、僕は弱いから」
 八斗は優しい性格と、『檻』という能力の特性上、単独での戦闘能力は獅条でも最弱の
部類に入る。
 あくまで二人以上のチームを組んでいなければ、性能を発揮できないのだった。
 本当に自慢じゃないですね、と九葉は苦笑した。
「大丈夫。八斗は、私が守るから」
「九葉……」
 静かに見詰め合う二人の世界を叩き壊したのは、げふんげふんという、わざとらしい咳
払いだった。慌ててベッドから離れる八斗。
「えーと……私の目の前でインモラルワールドを形成しないでくださいね」
「あ、先輩。まだいたんですか」
 九葉のあんまりな言葉に、はぁ、と陽香は嘆息。
「あ、先輩じゃないですよー……もう。殆どやられかけてたみたいですけど、それにして
は随分余裕なんですね、九葉ちゃん」
「そうですね。負けたつもりもありませんし……次は勝ちますから」
 淡々とした台詞には、熱く燃える決意と、何らかの自信が秘められていた。
「犬神さんが……その、さっき言っていた『変異』だったんですね」
 信じられませんと陽香は俯き、当然の疑問を口にする。
「百鬼衆の人たちに知らせないんですか?」
「知らせません。彼女は私たちの獲物ですから。尤もあの犬が私たちの担当区域外で人を
襲えば百鬼の網に掛かってしまうでしょうが――」
 今まで逃げおおせていた彼女が、今更そんな愚を犯すとは思えない。
「あいつが何を考えているのか……まだ私には分からないけれど」
 正体が分かった以上、王手は近い。目前の糸を辿っていけば必ず真実に辿りつく。
 とりあえず今は、件の倉庫を調査することが先決だった。


  *


 再び校舎裏へと舞い戻った一行は、今度こそ邪魔もなく結界へと辿り着くことが出来た。
 一見何の異状も見当たらない草叢は、真昼の陽光に照らされた静寂があるばかり。
 幻覚結界の存在を確信していた九葉は、脳の認識機能を狂わせるあやかしに惑わされる
ことなく、この場所にまず一点の異状を感じ取ることができた。
 ……静かすぎる。
 自然を多く残すイワトでは、夏ともなればどこへ行っても蝉時雨が止むことはない。
 だというのに、この校舎裏だけはまるで防音された密室のように生物の気配がない。
 幻覚結界が虫たちの無意識に働きかけ、遠ざけているに違いなかった。
 となれば結界を作り出している術具なり使い魔なりが設置されている筈だが……
「見つけた。多分アレだね」
 投じられた妖針が、柳の枝を狙い撃つ。針は枝に巣を張っていた蜘蛛に命中し――
 途端、周囲の空気が陽炎のようにゆらめき始める。やがて一行の視界を偽っていた幻が
破壊されて、校舎裏は真の姿を取り戻した。世界に満ちていた静寂が掻き消え、虫たちの
声が少しずつ聞こえ始める。
 食人鬼の眷属を目敏く見つけ出したのは、やはり結界の専門家である八斗であった。
 一行の前につまびらかになった空間には、朽ち果てた小屋が一つ、おどろおどろしい姿
を晒している。
 小屋に入る前に、九葉は針に貫かれた蜘蛛を拾い上げてつぶさに観察してみた。こうい
った術の一端から敵の情報を読み取れることもある。
 驚いたのは、身体を針で貫通されている蜘蛛が生きていることだった。こんな時にまで
律儀にも不殺を守る八斗には、もう呆れるしかない。
 焼き鳥みたいな格好でカシャカシャ足をばたつかせていた蜘蛛は、やがて動きを止めた。
睡魔を誘う妖気が込められた針にツボを貫かれ、眠ったのである。
「八斗、この蜘蛛の種類、分かる?」
「え? えーっとね」
「オニグモですね」
 八斗に先じて答えたのは陽香の声だった。
「ちなみに黒褐色の胴体と背中の斑点模様、円形の巣を張るのが特徴です」
「鬼蜘蛛――」
 その言葉に何か思うところがあったのか、九葉は顎に手を添えて考え込んだ。
「この結界……縺楽(れんがく)の術に、似てる」
 小さく、囁くように漏れた言葉は、複雑な心情を孕んでいた。


 縺楽――
 一匹の鬼と、一人の人間を始祖とする獅条の系譜は、代替わりを経るにつれて様々な妖
魔の血脈を取り込んで、分家として枝分かれした。
 そのうち、妖蜘蛛(あやかしぐも)の血を色濃く継承する家が縺楽である。
 鬼と蜘蛛の特性を併せ持つ一族。故に彼らは『鬼蜘蛛』と呼ばれている。
 人の血が極めて薄く、強い食人衝動を抱え、例外なく残忍な性質を生まれ持つ彼らは、
妖怪を殺す役目を負う獅条の中でも特に畏怖の対象となっている。
 拷問術、結界術、暗器術、拘束術、精神操作、傀儡繰り……
 彼らは独自に磨き上げた酸鼻極まる殺戮技芸を嗜み、妖怪の体組織を加工して様々な暗
器、器械、術具などを造り上げることに長けている。
 蜘蛛糸を媒体とした結界術は、正しく縺楽のお家芸であった。
蛛糸結界(ちゅしけっかい)……」
 八斗が厳かに呟いた。
「細部が違うけれど、確かに似ているね。でも、これって犬神の体術とは系統がまるで違
う術式だ。ねぇ九葉、どういうことだと思う?」
 通常半妖が変異した場合、従来の特性が強化されるだけであり、新たなる能力を――そ
れも系統のまるで違う能力を身に付けるなんてありえない。
 この事態を説明できる仮説があるとすれば。
「昼間なのに獣化できることも含めて……『憑依型』でしょうね」
「僕もそう思う。犬神に妖蜘蛛が憑依した『変異』。それが食人鬼の正体じゃないかな。
 そうすると、色々と辻褄が合うよ。
 ……っと、ごめんなさい先輩、勝手に話進めちゃって」
 陽香は淑やかに首を振る。
「いいえ。大丈夫、大体理解できてますから。以前、縺楽のお話は七夕くんから聞いたこ
とがありますし」
「話題の乏しい兄で申しわけありません」
 縺楽の話題なんて、女の子に振る話ではありえない。無神経にもほどがあると九葉は内
心で兄に毒づいた。
「いいんですよ。七夕くんの話なら、なんでも」
「……それ、本人に言いました?」
「ええ。首を傾げてましたけど」
 微笑ましい光景を思い出したのか、嬉しそうに笑う陽香。七夕といる時と同じ、恋する
乙女の笑顔だった。数年前、七夕と出会う前の彼女は、確か大人しい人形のようなイメー
ジだったのに。恋は女を変えるというのは本当らしいと、九葉は感心した。
「はぁ、あの人はもう……」
 とりあえず兄にはよく言って聞かせねばなるまい。二人が上手くいくかどうかは別問題
として、あまりにも鈍感過ぎる。女性代表として見るに耐えない。
 一体あの三白眼のどこが気に入ったのやら、後で聞いてみようと九葉は決めた。


  *


 倉庫の引き戸は半ば腐食していて、立て付けが悪かった。目を凝らして見てみれば、真
新しい傷が取っ手に残されている。
「……爪痕」
 ごくりと唾を飲み込んで、九葉は軋む戸をゆっくりと開いていく。
 まず鼻に付いたのは、饐えた血臭。続けて完全に戸が開き切り、陽光が室内の闇を喰ら
い尽くす……そこに。


 甲高い悲鳴は、陽香が上げたものだった。無理もあるまい。こんなモノを直視して、卒
倒しないだけでも驚くべきことだ。
 元が体育倉庫だけあって、中は雑然としていた。あちこちに巨大な蜘蛛の巣が張ってい
て、埃が沢山積もっている。それでも食事を摂るためのスペースは開けてあった。跳び箱
や用具類は、邪魔だからどかしたのだろう。細かく壊されて隅に追いやられていた。
 中央に敷かれたマットの上に、食い糟(、、、)が二体、仲良く並んでいた。
 食後の焼魚を連想してみればいい。頭部を残し剥き出しになった骨に、肉が僅かにこび
り付いている。一人は、無残に破かれた制服を……こう形容していいものか分からないが
……着用していた。
 もう一人は、脱がしてからの方が食い易いとでも思ったのか、裸だった。


「……ごめんなさい。貴方たちの死は、私たちの責任です。守れなくて、ごめんなさい」
 二人に詫びて、九葉は跪き手を合わせた。八斗と陽香も、九葉に倣う。
 ごめんなさい、と三人の声が重なった。
 しばし黙祷して……
「その、先輩」
「大丈夫。気を遣わなくてもいいですよ、九葉ちゃん。……佐久間さんと桜井さんに間違
いありません」
 二人とも一つ年下だけれど中等部からの知り合いだから、間違える筈がないのだと陽香
は言った。
 しゃがんだまま俯いている彼女の表情は窺い知れない。ただ、肩を小刻みに震わせてい
たから、泣いているのだろうと思った。
 九葉は頷くと制服の裏地を捲り、名前の刺繍を確認した。
「先輩、やっぱり外で待っていて頂けますか?」
 顔を上げた陽香の瞳には一雫の涙が付着していた。何かを堪えるように深呼吸した彼女
は、涙を拭ってから頷いた。
「うん……でも、理由は?」
 九葉は悼むように目を眇め、答える。
他の人たち(、、、、、)も、見つけてあげなくちゃ」


 倉庫からは、合計八人分の遺骸が発見された。残る行方不明者数とぴたりと一致する数
だった。半数以上が人の原型を留めてはおらず、残る半数もまるで野犬に食い荒らされた
ように白骨を晒していた。
「どう思う……八斗」
それを僕に聞くの?(、、、、、、、、)
 失言に気付いた九葉は、慌てて言い直した。
「ごめんなさい……そういうことじゃないの。その、食人鬼――犬神操は、この倉庫に結
界を張って、獲物を結界内まで誘い込んでから食べていた……んだと思う。
 きっと、医術師と甲賀先輩の事件で、百鬼に察知されない巣が必要だと思い知ったから。
 だから今まで尻尾を掴ませることなく食餌を摂ることができた。
 彼女、外見は悪くないし、友人だっていただろうから。騙して連れ込むのはとても簡単
だったでしょうね……」
 八斗は首肯して、だろうねと言った。
「彼女、ここに戻ってくると思う?」
 ふむ、と八斗は少し考えて、
「普通に考えれば他に巣を張るだろうね。でも、今の彼女が論理的な行動を取れるとは限
らない」
「どういうこと?」
「あの『変異』は、九葉にもにいさんにも止めを刺さなかった。奴が僕たち獅条を見逃す
理由なんかどこにもないっていうのにだ。仮説だけど……犬神操の意識が残っているんじ
ゃないかな」
「だから、私たちに止めを刺さなかった?」
 うん、と八斗は頷く。
「憑依型の変異が論理的思考力を失っていく事例は、幾つも確認されている。特に憑代が
憑依されていることを自覚すると、一気に症状が進む傾向があるらしい。憑代の自我が拒
否反応を起こすんだね。だから、今の犬神操は極めて不安定な状態にある」
「つまり?」
「思考力が低下した彼女は、巣に戻ってくる可能性が高い」
 佐久間と桜井の遺体を検死した八斗は、残された顔面の腐敗の程度、硬直具合、そして
残り香のように漂う妖気の密度から死亡推定時刻を前夜二時前後と割り出した。
 なるほど夜の眷属たる犬神の変異であれば、夜行性であるのは当然のことだ。
「あくまで可能性だけどね……。ここまでことが進行したら、さすがに報告しないわけに
もいかない。彼女の捜索は――まず捕捉出来ないとは思うけど、百鬼の人たちに任せて、
僕たちは家で準備をしようよ。
 とりあえず、巣はこのままにして……さっきの結界に似せた捕縛トラップを仕掛けてお
こうと思う。うん、せっかくだからさっきの使い魔をリサイクルして、もしも変異が罠に
掛かったら僕に伝わるようにしておこう。
 この罠は全身を縛って動けなくすることこそできないけれど、発動すると学校の敷地全
体を覆う結界を展開する。いくら夜の変異獣人でも、短時間で抜け出すことはまずできな
いといっていい。彼女が結界を壊して逃げ出す前に、僕たちが到着するってわけ」
 恐らく、決戦は夜の学校になるだろう。それが獅条八斗の結論だった。