燃え盛る夏の太陽も傾いて、蒼穹が朱に染まった頃。
 獅条六海はようやくラストダンジョンに到達したロールプレイング・ゲームを一区切り
して、固くなった間接をほぐし始めた。
 だぼだぼのノースリーブシャツと下着だけを穿いた、だらしない格好。シャツから伸び
る色白の四肢が、柔軟運動をする度にごきごきといい音で鳴る。首、肩、腰、股と順番に
こなし、最後に寝転んだ体勢で「う゛〜」と唸りながら全身の筋を限界まで伸ばす。
 ふう、と一呼吸を吐いたところで腹が鳴り、そこで初めて空腹に気が付いた。熱中して
いると寝食を忘れてしまうのは自分の悪い癖だと六海は思う。
 メモリーカードにデータを保存し、電源は付け放しのままでポーズを掛け、部屋を後に
した。腹が減っては戦はできぬ、ラスボスとの最終戦闘に備え空腹を満たしておかねばな
るまい。ぐぅぐぅと鳴り続ける腹をさすりさすり、暑さにバテながらも台所へと向かう。


「う゛ぁ〜、あづい〜。()ぃ姉〜、何か食べ物ちょうだ〜い」
 獅条一家の食卓は次女である三奈美(みなみ)が一手に引き受けているのだが、目当ての姉はしか
し、台所には見当たらなかった。いつもならこのくらいの時間には夕食の準備をしている
筈なのだが……可愛い妹が腹を空かせているというのに、どこをほっつき歩いているのだ
ろうか。
 何かないかな、何かないかなと呟きながら台所を探索する六海。
 獅条家の台所は八畳ほどの広さで、酒樽やお櫃の類、食器棚、氷冷蔵庫などが並ぶ板張
りの道具置き場、石造りの流し、酒屋八百屋などの御用を聞く土間というように敷地を三
等分されている。
 かまどは煉瓦作りの立派なもので、立ったまま仕事ができる形。
 生活必需品である水甕はないが、代わりに流しの隣に木造の四角い井戸が設置されてい
た。川や公用井戸まで水を汲みに出かけなければならない苦労を思えば、獅条家の台所は
イワトでも非常に贅沢な部類に入るものといえるだろう。
 廊下と隣接している板張りの一角に佇み、きょろきょろと視線をさまよわせていた六海
は、食器棚の隣にある蠅帳(はいちょう)に目敏く照準を定めた。
 握り飯である。
 三奈美が六海の行動を見越して用意してくれたものに違いあるまい。自らの生理的欲求
に従って都合のいい解釈をした六海は、遠慮せずに戴くことにした。
 大振りの握り飯を三つ、残さず平らげた六海。膨れた腹を満足気に撫で擦りつつ自室へ
と戻る道すがら、和装の兄と出会ったのである。
 見たところこれからどこぞへ出掛けようという趣だが……
「どっか行くの、兄貴?」
 おお、と気さくに応えた漱四。
「仕事だ。今日は帰れないかもしれん」
「ふうん……例の食人鬼に関係あるの?」
 獅条であっても百鬼との関わりが薄い六海の耳には、近隣で流れている噂に毛が生えた
程度の情報しか入ってこない。兄の仕事といえば、今現在思い浮かぶのはそれしかなかっ
たので素直に問うてみた次第であるが、兄は首を横に振った。
「いや、別件だ。そうそう一つの事件ばかりにかまけているわけにもいかなくてな。
 ――まあ、問題あるまいよ。九葉が任せろと言っておったからのう」
 あれは無根拠なことを放言する奴ではなかろうと漱四は言った。
 確かに九葉は適当なことを言ったりしない子だ。彼女が任せろというのなら、任せてお
けばいいのだと六海もそう思うのだが……。九葉の実力を目の当たりにしたことのない六
海には、強い妹の姿というものが想像できないのであった。
 昨日、七夕が死にかけるような大怪我をして帰ってきたばかりなのだ。さすがに能天気
な六海も、そんな奴を相手取る妹たちが心配になってくる。


「そんな顔をするな、心配いらん。八斗も付いておるし……それにな。
 九葉――あやつはともすると、拙者や恭二(あにうえ)よりも強いかもしれんぞ?」
 冗談半分、本気半分の声色で言った兄は、くしゃくしゃと六海の頭を乱暴に撫ぜる。
 爽やかな笑顔で「行って来る」と一言だけ言い残し、颯爽と脇を通り過ぎていった。
「むぅ……いつもああだったら格好いいのに」
 六海は頬を紅く上気させて、兄には聞こえないように呟いた。
 漱四は中身はともかく外見だけはいいのである。妹が時折見惚れてしまうほどには。
「六海、一つ言い忘れておったが」
「ひゃいっ!? ……な、何さ?」
 突然話しかけられて、心臓が破裂するかと思った。どきどきと鼓動を刻む心臓を押さえ
ながら、次の言葉を待つ。
「下穿きをはいたほうがいいと思うぞ、見るに耐えん」
「台無しだよばかぁっ! 早く行けっ!」
「ぬぉっ!? こら! 尻を蹴るでないっ!」
 色々と複雑な想いを込めた乙女の足蹴りによって尻を続け様に痛打した漱四は、情けな
くも這う這うの体で退散していったのであった。


  *


「ぁ――ったく。馬鹿のせいで疲れた」
 心底ダルそうに自分の部屋に戻ってきた六海は、シャツの中に手を突っ込んで蚊に刺さ
れ痕を掻きながら、後足で行儀悪く障子を閉めた。
 六海の部屋の中心には、十四インチサイズのブラウン管テレビと最新型ゲーム機が王者
の如く鎮座しており、約一週間分の電気を溜めておくことが出来る大型バッテリーにコー
ドが繋がっているのだった。
 部屋を囲うように配置された本棚には『外』の漫画本とゲームソフトがそれはもう大量
に蒐集されていて、個人レベルでは間違いなく、世界で最も『外』の文化が濃厚に見て取
れる部屋であるといえよう。
「むっ」
 そんな六海の狭き楽園に、一匹の闖入者がいたのである。
 犬だった。どこの野良犬が紛れ込んできたのだろうか。こいつめ部屋を荒らしやがって
と元々散らかっていたことを棚に上げて怒りに燃える六海であったが、犬の口元を見るや
時が凍り付いた。
 汚らしい犬畜生は食い物とでも間違ったのか、あろうことか六海のメモリーカードを咥
えており――
「ちょっ……待てぇェェェェェ!!」
 数百時間にもおよぶ想い出が満載された記録媒体は儚くも、駄犬の餌食と相成ったので
ある。断末魔の絶叫を上げる六海。ゲーマーの魂が打ち砕かれた瞬間だった。
 犬はいかにも不味いものを食ったとばかりに、ぺっと黒い残骸を吐き出した。
「こ、この糞犬がァァ! てめっ、そこまでやり込むのに一体何時間掛かったと……!」
 般若の形相で迫る鬼に怖気づいたのか、犬は身を翻して軽やかに跳躍し、襖に開いた大
穴から七夕の部屋へと逃げ込んでいった。
「逃がすかァァァ!!」
 躊躇せず襖を蹴り破り隣室へと踏み込む六海。しかし雑然とした無人の部屋には怨敵の
姿はすでになく、障子戸を破って廊下へ逃げたものと思われた。
 障子を乱暴に開いて周囲を見回した六海は犬の姿が見えないと知るや、まず広い庭の先
にある門の方角を凝視した。獅条家は高い柵に囲われているため、野良犬が忍び入ったと
すれば家人の出入りに便乗したとしか考えられない。今、家の門扉は硬く閉ざされている。
 となれば彼奴めは家の敷地内からは出られぬという道理……
 慌てず騒がず、家の中を一部屋一部屋捜索していけばいい。
 ラスボス直前のデータのみならず、最高レベルまで鍛え上げたキャラたちを抹殺された
恨みは、地獄よりも深いのである。


「六海、拙者のおにぎり知らん? 台所に置いてあったやつ」
「知らないよそんなのっ! 今はそれどころじゃないんだってば!」
 捜索中、何故か出掛けたはずの漱四に話しかけられた六海だったが、今の彼女にはその
問いに答えられる精神的余裕はなく、兄の夕食になるはずだった梅おにぎりの行方は永遠
に謎のまま迷宮入りすることになった。
 きっと誰か心ない奴に食べられてしまったのだろう。酷い話である。
「拙者のおにぎり……」
 空きっ腹を抱えた和装の剣士は消え失せた夕食を求め、悄然と歩き去っていった。


 獅条家の母屋は、有事の際に拠点としても使用されるため、若干入り組んだ構造をして
いる。当主が趺坐(ふざ)する奥の間には、かなりの回り道をしなければ辿り着けぬよう工夫され
ているのである。とはいえ家族が普段使用する私室はその限りではなく、兄弟たちの部屋
は庭に面して並んでいる。
 母屋の玄関から順に、八斗、九葉、七夕、六海の部屋。
 角を曲がって成五(せいご)(三男)、漱四、三奈美の部屋と続く。
 陽光を厭う恭二の部屋と、当主である長女・一流(いちる)の部屋だけは別になっていた。


 呼吸をするように嫌味を言う妹と顔を合わせるのを本能が避けたのか、六海は七夕の部
屋から出た後、成五、漱四、三奈美の部屋という順序で捜索を進めた。漱四とは廊下で出
くわしたものの、成五と三奈美は留守のようだった。犬が侵入した形跡もない。
 やはり咄嗟に逃げ込むとすればこちらではなく、八斗か九葉の部屋であろう。
 そう見当を付けた六海は、弟の部屋に忍び寄ったのだが……


「はぁん……くうっ」
 障子を隔てた室内から……九葉のあられもない嬌声が漏れてくるのである。
 これにはさすがの六海も度肝を抜かれ、怒りも忘れて赤面した。
「八斗……もっと優しく抜いて」
 日も落ちぬうちから兄弟で何をしてやがるのかこいつらは――! と、僻みにも似た怒
りが新たに湧いてきた六海だったが。
 いやいやまてよ、ここは姉としてことの顛末を見届けねばなるまいと冷静に考え直し、
その場に腰を下ろして耳をそばだてた。傍から見ればまるきり出歯亀の様相である。
「ごめんね九葉、次はもっと痛くするけど……いい?」
「ええっ……うぅ、仕方ありません……」
 ほどなくして激痛を堪えるような、押し殺した悲鳴が漏れてきた。
 黙って聞いている六海としては首を捻る他はない。若い身空で倒錯した性癖を持て余す
兄妹に、姉として何をしてやれるだろうか。
「次はもっと痛いけど……大丈夫、九葉?」
「ふぇぇ……っ――大丈夫じゃないけど……でも」
 恐れをなしたのか実に一分近くも逡巡した九葉だったが、最後には「いいよ」と諦めた
ように運命を受け入れたのである。
「分かった……いいんだね」
「け、決意が鈍るから早くして!」
 声だけしか聞こえないが、どうやら中はついにクライマックスを迎えたようである。一
体何をしようというのだろうか……すでに六海の妄想は暴走気味に膨張しつつあった。
 イワトでは近親愛は禁忌ではなく、獅条家ではむしろ推奨されている節さえある。
 尤も、八斗と九葉の場合は『外』の法に照らしたとしても違法にはならないのだろうが
……。『外』の文化を身近に感じている六海には、一つ屋根の下に暮らす兄弟間の恋愛は、
やはり倒錯しているように思えてならない。
「九葉が暴れると怖いから、縛るよ」
(縛るのかよ!? まじっすか!)
 驚愕のあまり大声で突っ込みを入れそうになってしまった。危ないところだった。
 しゅるしゅると、まるで繭から糸が紡ぎ出されるような音がして。続いてぎちぎちと柔
らかい少女の肉を締め付ける淫靡な音が聞こえてくる。妖糸をより合わせて強靭な『縄』
を造り出す――八斗の拘束術で九葉は縛り上げられてしまったのだろうと思われる。
「ぅ……くっ……い、っ――――ぐ」
 涙声で苦悶する妹の声は逼迫していて、とてもこの状況を望んでいるようには思えなか
った。六海としてもそろそろ洒落にならないのではなかろうかと本気で懸念を感じている
と。
「っ――――っ!」
 漏れてきたのは掠れた絶叫。こちらまで幻痛を感じてしまうほどの、苦惨たる涙声。
「ちょ、ちょっと何やってんのあんた達っ!」
 たまらず踏み込んだ六海。
 つまびらかになった部屋の中……両手両足を蒼白く光る『縄』で束縛された制服姿の九
葉が畳の上に仰向けに寝かされていて、八斗が腹の上に馬乗りになっていた。
「八斗……あんたって奴は……変態だったのね……!」
「ええっ、誤解だよっ!?」
 憤怒の視線を受けた八斗は、あわあわと狼狽して釈明を始めた。
「九葉の封印を解除していたんだってばっ!」
 彼の手には五寸釘に酷似した、やはり蒼白い光を帯びた器具が四本納まっている。
 九葉は息も絶え絶えにぐったりとしているものの着衣に乱れはなく、これはどうも六海
が懸念していたような事態とは少々事情が異なっているようだった。
「なぁんだ。あたしはてっきり八斗が九葉にインモラルかつマニアックな行為を強要して
いたのかと……」
「ば――な、何を想像してるんですか……!」
 荒い息のままで、頬を羞恥色に染める九葉。
「そんな破廉恥な格好でうろついている姉さんの方が、よっぽど変態的です」
 誤魔化すように嫌味を言うと、ぷいと横を向いてしまった。


  *


 何やら犬を探していたらしい六海は、再び捜索を開始すべく八斗の部屋から去っていっ
た。六海が来る少し前、件の犬は確かにこの部屋に来たのだが……危害を加えたわけでも
ないのに、犬は八斗を見るや唸りを上げて後退り、やがて脱兎の如く逃げ出していった。
 八斗は、どうしてか昔から獣には物凄く嫌われてしまうのである。妙な体質だと思う。
「八斗……今、何本抜いた?」
「昼間の奴を合わせて合計五本だね。……もう十分なんじゃない?」
 あれだけ痛い思いをして五本……。げんなりした九葉だが、八斗の問いには首を振った。
「…………あと五本抜いて」
「本気?」
 こくりと勇気を振り絞って首肯する。十本といえば、当主から許されているぎりぎりの
『解除してもいい』霊楔の数である。
「あいつは、必ず私が仕留めるから」
「分かった」
 九葉の覚悟に、八斗は神妙に頷いた。
「じゃあ、いっそ五本纏めて抜いてしまおうか。その方がきっといい。すごくいい」
「ちょ、ちょっと待って……い、一度に?」
 さすがに怖気づいた九葉である。
「うん、僕はどちらでもいいけどね? さっきと同じ痛みを五回味わうのと、さっきより
も数倍痛いけれど、一度だけで終わるのと――どっちがいい?」
 少女のような容貌の兄はまるで天使のように、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「うぅ……ふぇぇ」
 ……犬が逃げ去った理由が、ちょっぴりだけ理解できた気がする九葉だった。