第六章 鬼蜘蛛の宴



 兄が伏せる部屋の廊下で、獅条九葉は陽香の退室を待っていた。すでに小一時間ほど経
っているが、九葉は何もない時間を苦にしない性質なので、特に急くこともなくじっと瞑
目したまま佇立している。
 深雲陽香。彼女のことを考える。
 兄に無遠慮に近づいてくる気に入らない人物だ。理屈ではなく生理的に、九葉とは相容
れない存在。それでも……彼女の想いは偽物ではない。
 それくらいのことは自分にも分かっているのだ。
 なのに。
「……苛々するのは、どうしてでしょうね」
 別に、九葉は兄である七夕に恋愛感情を持っているわけではない――と思う。心の中は
もやもやしていて、自分自身でも全貌を見渡すことは出来ない。けれども、恋愛云々は別
問題として、やはり自分も兄離れができていないのかもしれない。
 そんな詮無い思索を巡らせていると、ようやく長い見舞いを終えた陽香が兄の部屋から
退室してきた。
「あら……もしかして、ずっと待っていたんですか?」
「お気になさらず。では、門までお送りしましょう。私は八斗の傍を離れるわけにはいき
ません。ご自宅まで送るわけにはいきませんが――街中は百鬼の者が見回っておりますの
で、道すがら何かありましたら大声を出すことをお奨めします」
「何かって……不安になるようなこと言わないでくださいよ、怖いなぁ」
 冗談めかした口調の陽香に、九葉は真剣な顔で釘を刺した。
「まだ宵の口とはいえ、食人鬼が徘徊しているんです……十分に気をつけてお帰りくださ
い。私は貴方がどうなろうと知ったことではありませんが、貴方が食べられてしまうよう
なことがあれば、兄さんが哀しみますから」
 七夕は、この人のことをどう思っているのだろうと考える。……分からない。自分のこ
とすら分からないのに、他人の気持ちなんて分かるわけない。
 でも、少なくとも嫌ってはいない。恋愛感情にまで発展しているのか、そこまでは分か
らないけど、兄は……間違いなく深雲陽香に好意を抱いていることだろう。
 だから二人が仲良くするのはあたりまえ。何も問題はない筈だ。
 なのに……獅条九葉は、それがどうしても気に入らないらしい。その想いが一体どこか
ら生じるものなのか、年若い少女には計りかねた。
「九葉ちゃん?」
「いえ、何でも。……行きましょうか」
 迷宮のような思考を遮断した九葉は、無言のまま陽香を門前まで送り届けた。
 辞去の言葉に一言だけそっけない返事を返し、帰り道を行く陽香の背をぼんやりと見詰
めている。
 次の瞬間に起こった出来事を、誰が予想出来ただろうか。
 陽香の姿がちょうど視界から消え失せた辺りで、甲高い悲鳴が轟いたのである。
「まさか……!」
 すぐさま駆けつけた九葉は、信じられない光景を目にし、ぎりぎりと歯を軋らせた。
 昏黒した闇を穿つ紅月は『外』の月が放つ楚々とした光など及びも付かない眩さで、炯
々と輝いている。
 円を描いた月の下、坂の上から、獣化した犬神操が九葉を見下ろしていた。
 今や知性の剥落した隻眼は暗く濁り、けれど全身から溢れ出る視認可能なほどの黒い妖
気は、昼間に遭遇した時とは比べるべくもない圧力で九葉の魂を鷲掴みにする。
「くっ……」
 操は、腹の脇に人を抱えていた。今夜の食餌に選ばれた哀れな犠牲者は、よりにもよっ
て、たった今別れたばかりの人だった。気を失っているのだろう、陽香はぐったり目を閉
じたまま動かない。すでに死んでいるものとは思いたくなかった。
 最悪のタイミングで、最悪の事態が起こってしまった。
 見回りの百鬼達は何をやっていたのかと舌を打つ。そもそも立ち返るに、この変異は何
故あつらえたようにこの時間、この場所に現れて、たまたま通りかかった陽香を狙ったの
か。偶然にしてはあまりにも出来すぎている――
 推理を紡ぐ暇もあらばこそ、操は誘うように身を翻し、飛翔するような跳躍で坂を上っ
ていった。
「逃がさない……!」
 意思の力で抑えていた妖力を開放し、変異に迫る加速で追いすがる九葉。
 七夕が目を覚まして、陽香が変異の犠牲になったなどと知ったら……彼は自分を激しく
責めるに違いない。そんな兄の姿は見たくなかった。あの先輩のことはあまり好きじゃな
いけれど、あの変異を倒し、必ず無事で助けてみせる。
 兄の仇は――自分がとると決めたんだ。


 月の加護を受けた変異獣人ともなれば、その脚力は飯綱と並び世界最速に他ならない。
 十の戒めから開放された九葉であっても、じりじりと距離を離されてしまう。
 だが、操が向かっている場所には心当たりがあった。昼間八斗が言っていた通り、彼女
にはもう正常な思考能力は殆ど残っていないらしい。
 獲物を捕らえた食人鬼は、己が巣に帰還しようとしている。


 黄泉平坂を駆け上る九葉は、学校までの道程で四名の同胞を見かけた。ここ周辺を見回
っていた百鬼に違いないが、彼らは皆、腹や肩に裂傷を負い、戦闘不能の有様で地に伏し
ていた。最早低位の百鬼では、操の相手は荷が勝ちすぎる。
「役立たず」
 辛辣に呟いて、不甲斐ない仲間の脇を通過する。九葉の役目は標的の追跡と撃破であり、
それは当然、負傷者の救援よりも優先される。彼らのことは後から追ってきている筈の八
斗に任せておけばいい。
 始祖の特性を色濃く受け継いでいる九葉は、普段、絶大な潜在能力と共に獰悪なる闘争
本能を封じられている。楔が抜き放たれ戦闘状態に入った今、身体の裡から漏れ出してく
る破壊衝動を抑えるものは自身の理性一つしかない。
 何もかも、全てを壊してしまいたいと叫ぶもう一人の自分。
 しっかりと手綱を握っていなければならなかった。少しでも気を緩めれば敵ではなく、
己が力によって自滅しかねないのだから。


 ほどなくして九葉は坂を上りきり、夜の学校へと到着した。
 敷地内に足を踏み入れるや、眩い光が彼女の視界を埋め尽くし――次の瞬間、夜空はそ
の暗さを失っていた。
 広域蛛糸結界。
 八斗が仕掛けた罠が発動し、敷地全体を蜘蛛糸の結界が覆っていたのである。
 蒼白い光糸で編まれた巨大な天蓋は、宵闇の中にあってなお、幻想めいた清麗さで九葉
の眼を奪った。
 息を飲む美しさだが、効果の程は絶大だ。敷地の周囲に刺さっている幾本もの霊楔から
紡ぎ出された妖糸は、幾重にもより合わされ編み込まれ、正しく変異を閉じ込める堅牢な
『檻』と化している。
 これで術者である八斗が来るまで、九葉も外に出ることが出来なくなったということだ。
 ふふ、と小さく笑う。
 何も問題はない。一対一の状況は望むところだった。これなら多少羽目を外して暴れて
も、味方を巻き込むことはない。
 九葉は真っ直ぐに校舎裏へと向かった。そこにはすでに操の姿はなかったのだが……
 木々の枝葉が鳴る音で敵の気配を察知した九葉は、残像が残るほどの速度でその場から
離脱するや、凝然と樹上を仰いだ。
 大蜘蛛、だった。黄と黒の縞模様を胴体に刻む、子供の身の丈ほどもある大蜘蛛の群れ
が、口腔から一斉に白い粘糸を発射して九葉を狙ったのである。
「うぅ……」
 生理的嫌悪感から身を竦ませる九葉。だが、彼女に迫る脅威は蜘蛛ばかりではなかった。
 日陰の湿った土があちこちで不気味に盛り上がり……土の中から、四本の足を持つ獣の
ような『何か』が這い出てきたのだ。
 (はらわた)を喰い荒らされ僅かな腐肉のみがこびり付いた骨。眼窩から飛び出し、だらしなく
垂れ下がった眼球。異臭を放つ身体には蛆が湧き、羽虫にたかられている。
 生前の面影は無残に喪われているものの……『それ』は犬の屍骸だった。
 食人鬼が犬の屍骸に邪法のあやかしを施して、大蜘蛛と同様、眷属として使役している
に違いない。
屍霊遣い(ネクロマンシー)……」
 死霊を支配し、死者の屍を繰る暗黒の妖術。目前の現象をそう解釈した九葉だったが、
敵の性質を考えればむしろ、妖糸による傀儡術に近いかもしれないと思い直す。
 薄寒い悪寒を感じた。勿論、九葉を包囲する下級妖魔たちの脅威も侮れないものはある
が、それよりもこの状況はより悪い事実を示唆している。
 敵をまんまと罠にかけ、追い詰めたつもりだった。
 なのに……今、九葉は大量の敵に包囲され、八斗が張った結界によって逃げ道を塞がれ
ている。まるで、逆にこちらが罠に嵌められたみたいだった。
 さながら蜘蛛の巣に絡め取られた獲物のように。
「ありえない……そんなの」
 そんな馬鹿なこと、予めこちらの作戦を聞き知っていなければ出来る筈がない。
 第一、正常な思考力を失っている犬神操に、そんな作策が立てられるわけもない。
 何かがおかしかった。何もかもが納得いかなかった。
 誰かに踊らされているような違和感がある。
 敵は犬神に妖蜘蛛が憑依した変異……本当に?
 蛛糸結界。傀儡繰り。蜘蛛の使い魔。縺楽に酷似した術式の数々……
 変異の不可解な行動。正気を失った犬神操。
 九葉の脳内で数々のパーツがパズルのように組み合わさっていく。
 脳裏に浮かび上がった推測はあまりにも信じ難く、九葉は頭を強く振って否定した。
「違う」
 まだ何か足りないパーツがある筈だった。こんな結論は認めるわけにはいかなかった。
「もういい……っ!」
 飛び掛かってきた屍犬を、八つ当たりするような裏拳で薙ぎ払った九葉は、考えるのを
止めて叫んだ。
 そう、もうそんな些細なことはどうでもよかった。罠だろうが何だろうが――纏めて蹴
散らしてやればいい。
 凶悪な衝動に身を委ね、九葉は殺戮を開始した。


  *


 腐乱した犬たちは、仲間の一頭が粉微塵に砕かれたのを皮切りに少女へと殺到した。
 損傷の激しい神経網に成り代わり、全身を巡る妖糸が彼らの体躯を生前よりもさらに速
く強く駆動させているのであった。動くほどに腐肉を零しながら、おぞましくも苛烈に獲
物へと踊りかかる。
 さらに樹上からは大蜘蛛の群れが少女の肢体を絡めとらんと、八つ眼を爛々と紅く光ら
せていた。
 四面楚歌。絶体絶命の窮地にあって、九葉の胸中に恐怖はなかった。彼女はまず、目前
に迫る犬の頭蓋を左の拳で側面から打ち砕いた。魔犬は巨大な鉄槌で頭を叩き割られたよ
うに、脳漿を撒き散らして吹き飛んでいく。
 拳を放った遠心力を殺すことなく、しなやかな左脚が一旋される。切れ味鋭い廻し蹴り
は稀代の妖刀さながらに、踊りかかった犬どもの胴体を呵責なく両断せしめた。
 一瞬の惨劇を目の当たりにした蜘蛛たちは、恐慌の仕草か鋏角を蠢かせ、奇声と共に煌
く粘糸を吐き出した。
 べちゃりと粘性の音を立てて、数多の白糸が地面に着弾する。無論、九葉の姿はすでに
そこにはなく、危なげなく回避した彼女はさらに一頭の屍犬の首を捻じ切っていた。
 そのまま何を思ったのか、九葉は思い切り腕を振りかぶり――手に持ったモノを樹上へ
と投擲する。
 狙われた蜘蛛は節足を蠢かせて回避を試みたが間に合わない。投じられた犬の首は、大
蜘蛛の胴体を貫通し熟れた果実のように潰れ、流れ出した中身で楡の幹を穢した。


 妖犬の群れをあらかた片付けた九葉は、樹上の蜘蛛に地の利を許すことをよしとせず、
まずは地上に引き摺り落とす策を選択した。
 論理的思考から導き出された策ではなく、闘争本能が導き出した戦闘の定石。
 間断なく迫る厭らしい糸を鬼面の相でかわしながら、九葉は蜘蛛がのさばる樹の根元へ
と向かい――太い幹を殴りつけた。それなりの樹齢を刻んだ樹木も、鬼の剛力の前には屈
する他はなく、根元から頂まで幹の中心から真っ二つに割れ裂けた。
 蜘蛛の雨が降ってくる。
 気の弱い者であればすぐさま卒倒するほどの、生理的嫌悪を喚起する光景。
 だが、それも今の九葉にとっては無防備な的が降ってくるも同然だった。彼女は蜘蛛が
落下するのを待つことなく、自ら跳躍して拳を放つ。両腕で一撃ずつ二匹の大蜘蛛を屠る
や、飛んだ勢いのままに次の樹を倒しに掛かった。
 腕の三倍ともいわれる脚の力は、人ならぬ少女であってもその比率に違いはなく、樹の
幹に直撃した九葉の飛び蹴りは、およそ腕では抱えきれぬ太さの樹木を粉砕してしまった。
 達磨落としのように中心を抜かれた木から、大蜘蛛がばらばらと落ちてゆく。
 九葉は蹴りの反動で宙に滞空。落ちてくる蜘蛛を一匹鷲掴みにし、たった今破壊した樹
の残骸を蹴って急降下するや、大地へと叩き付けて踏み潰した。
 着地した少女の痩躯から……黒煙じみた妖気が立ち上っていた。高濃度の『滅び』は、
こうして『瘴気』として視認することができる。
 変異が呼吸する際などに排出される瘴気と同じものだ。
 体内で『滅び』を生成し、存在しているだけで際限なく周囲を汚染していく……獅条の
始祖である『鬼』の特性の一つだった。
 九葉は普段、一〇八本の霊楔によって鬼の力を封じられている。そのうち十本……およ
そ一割弱の戒めを解除された彼女は、強大なる膂力と妖力を発揮する反面、始祖と同じ特
性を持ってしまう。
 落ち着いた精神状態でいれば意識的に抑制することも出来るが、一度戦闘状態に入って
しまえばもう止めることは出来ない。再び八斗に封印を施してもらうまでは。


 ゆらりと立ち上がった九葉は、無感情に敵の残党を見渡した。圧倒的な戦力差を理解し
たのか、食人鬼の眷属たちの戦意は萎え切っていた。
 瞳孔が縦に裂け、滅びの瘴気を総身に纏う九葉。姿こそ少女のままだが……今の彼女は、
妖魔の頂点に君臨する大妖怪――鬼そのものの威容だった。
 竦み上がる大蜘蛛どもが、やおら道を開けていく。
 まるで主の登場を出迎える家臣のように。
 現れた人影は、誰あろう犬神操であった。獲物はどこかに置いて来たのか、陽香の姿は
見えなかった。
 低く唸る彼女の瞳にはやはり知性の光は残っていない……九葉はその矛盾についてはも
う考えず、目前に現れた強敵を倒すことのみに意識を集中させた。


「誇り高い犬神の直系ともあろう貴方が、そんな醜態を晒すのはさぞや無念でしょうね…
…貴方の心情は分かるつもりです」
 九葉は哀れむような声で語りかける。
 もう……今となっては彼女がこちらの言葉を解しているのかどうかも疑わしい。
 無意味と知りつつ、それでも九葉は言葉を続けた。
「犬神操。兄に代わり、私が貴方に引導を渡します」
 それは偶然か。操は微笑するように口元を歪める。
 ――よろしく頼む。そんな幻聴が聞こえた気がした。
 月下の変異獣人に犬神の技量が加わったもの。それが九葉の敵である。
 相手にとって不足はない――どころの話ではない。恐らくは今の九葉でも、簡単に勝て
る相手ではあるまい。
 ぞくぞくと、肌が粟立つのを感じる。死の恐怖と、死闘の予感が綯い交ぜになって九葉
の思考を白く塗り潰していった。


 地を蹴ったのは同時だった。おおよそ五メートルはあった筈の間合いは瞬時に掻き消え、
両者は激突した。
 九葉が突き出した左拳は轟風を纏い、しかし空を切る。当たれば砕ける一撃を紙一重で
かわした操は、この機を逃さず爪を奔らせ、あやまたず九葉の胸を切り裂いた。
 黒い制服が裂けて鮮血が噴出すのにも頓着せず、九葉が攻勢を緩めることはなかった。
 相手が自分よりも速度で勝っていることはすでに分かっていたことだ。肉を切らせて骨
を断つという格言の通りに、懐深くまで敵を誘い込むことができた。
 爪を振り切った腕を狙って、九葉は右肘を打ち込んだ。確実に骨を砕く確信があった。
「……!」
 だが……操はそれすらもかわしてみせる。正気を失っていても操の動きには一切の無駄
がなく、身体に染み込んだ鍛錬の成果が尋常ならざる速度と相俟って、恐ろしい相乗効果
を発揮している。
 さらなる追撃を放たんと左腕を振りかぶった時にはすでに、操は四メートルの間合いに
まで離脱していた。
 膂力で勝り、闘争本能のままに荒ぶる九葉。
 速度で勝り、高度に練磨された武術を行使する操。
 互いの性能を確認するような一幕は、操が先制攻撃を加えるという結果に終わった。
 攻防は焼き直しのように繰り返される。
 間合いが零になるたび九葉の攻撃は空を切り、操の爪が少女の痩躯を切り刻む。すでに
真新しかった制服は、ズタズタに裂かれて着衣としての機能を果たしてはいなかった。
 だが操は気付いているだろうか……制服の破れ目から覗く少女の白い肌から、確かに付
けた筈の傷痕が消え失せていることを。


 獅条の始祖である鬼は不滅の肉体を持つと言われている。
 鬼の肉体は強力な再生能力を持ち、さらに自身と同系統――つまり『滅び』の力をもっ
てせねば傷付けることも叶わない。これが鬼の不死不滅たる所以である。
 一割弱とはいえ鬼の力を発揮した九葉に、その特性が僅かながらも現れていない筈がな
かった。
 今や九葉の肉体は、変異や獅条の『滅び』の力をもってせねばまともに傷付けることす
らできず、一撃の下に倒し切らねばすぐさま損傷を治癒してしまう。
 対する操は、今まで悉く九葉の攻撃をかわしてはいるものの、一撃でも直撃すれば致命
傷になりかねない。
 一見、操が九葉を圧倒しているように見えて、実際は逆である。決して簡単に勝てる相
手ではなくとも、九葉が敗北する要素はまるで見当たらなかった。
 唯一、犬神操に勝機があるとすれば……


「やはりそう来ますか――正気でなくとも、身体が理解してるんでしょうね」
 操はおよそ五メートルの間合いで動きを止め、四肢を地に付いた前傾姿勢で構えた。
 人ならぬ肉食獣の戦闘態勢。恐らくはこの攻撃に特化した構えから、九葉の攻撃にカウ
ンターを合わせ、さらに心臓部を狙い串刺しにする腹積もりだろう。なるほどそこまでや
れば確かに、九葉を即死させることもできるかもしれない。
 この誘いから、逃げるわけにはいかなかった。このまま時間をかけて攻めればいずれ奴
は倒せるだろうが……その分瘴気による汚染が進行する。
 それに……犬神操の手向けには、やはり犬神の流儀に従った止めこそが相応しいと思う
のだ。
「仕方ないですね」
 そう言いながらも、九葉の相貌には愉悦の笑みが刻まれていた。


 だが……最後の攻防に、九葉が全ての意識を向けた瞬間だった。
 ずん、と鈍い音がして。九葉の頸から、針が生えてきた(、、、、、、、)
「……ぇ……っ」
 あれほど漲っていた四肢の力が、針を刺された風船のように抜け落ち萎えていく。
 何が起こったのか理解できなかった。
 敵は目の前にいる……彼女はあれから一切の動きを止めている。なら、不滅の肉体を持
つ九葉に僅かなりとも損傷を与え――さらに鬼の力を根こそぎ奪い尽くすような凄まじい
効果の針で頸を貫いた敵は……何者だというのだろう。
 膝を着く。抗いがたい睡魔が全身を蝕んでいく……
 敷地全体を覆い尽くす糸の天蓋。紅い月と蒼い蜘蛛糸が、夜を妖しく彩っている。
 九葉は振り返り、霞んでいく視界の中で彼の姿を見届けた。


 二色の妖光に照らされた校庭の中心で、獅条八斗――――否。
 縺楽(れんがく)夜兎(やと)が、嘲笑(わら)っていた。