およそ一日と数時間ぶりに昏睡状態から覚醒した七夕は、開眼するや叫び声を上げた。
「どうした、悪夢でも見たか」
 陽香が辞去してからずっと七夕の傍に付いていた恭二は、そんな弟に気遣わしげに問い
かける。
「あぁ……まぁな」
 目を開けたらいきなり恭二の顔が目の前にあったのだ、その恐怖たるや所詮非現実であ
る悪夢など軽く凌駕している。普通こういう状況では、麗しい女性が看病をしてくれるも
のではないのか。
 腹に風穴を開けられた自分が死んでいないところを見ると、恭二はそれこそ必死に治癒
術を掛け続けていてくれたのだろう。そんな兄には感謝してもしきれない。
 だが、それとこれとは話が別だった。別に綺麗じゃなくても身内でもいいから、こうい
う役目は女性にやって欲しかった。そう思うのは贅沢な望みだろうか。
 夢の中。誰かが、眠る自分の手をずっと握っていてくれていたような気がする。
 まるで母のように優しい雰囲気の人だった。今も暖かい感触が、はっきりと残っている。
 もしやあれも…………いや、怖くてとても聞けない。夢は夢と割り切って、曖昧なまま
にしておくのが精神衛生上正しい選択かもしれなかった。
 身体を起こそうとした七夕だったが、厄介なことに操に負わされた痛手がまだ尾を引い
ているらしく、腹に激痛が走った。苦しげに呻いてしまう。
「まともに動けるようになるまでは……あと一両日はかかろう。まだ大人しく寝ていると
いい」
「なぁ、兄貴。俺はどのくらい寝てた? 状況は?」
 ようやく頭が回ってきた七夕は、矢継ぎ早に問い質した。
「丸一日と少し、というところだ。犬神操はたった今、九葉たちが追っていった」
 簡潔に答えてくれた恭二の言葉を吟味して、状況把握に努める七夕。
 犬神操が変異であることは、すでに周知のものとなったらしい。
 自分が今、生きているということは、あの場であいつは止めを刺さなかったということ
になる。ともすると、まだ操の意識が残っているのかもしれなかった。
「『今』九葉が追っていった……って言ったな。何があった?」
「…………」
 恭二は無言のまま答えようとしない。
「兄貴?」
「まぁ、そう慌てるな。まずは腹に何か入れろ。おまえは丸一日何も食べていないのだか
らな」
 恭二の言葉は尤もなものだった。何を聞いたところで床から起き上がることすらできぬ
今の自分に出来ることなどないのだし、ならば早く身体を動かせるようになるために、食
事を取るべきだった。何より空腹を意識した瞬間、腹が鳴った。
「……少し待っていろ」
 厳しい造りの顔に微笑(と思われる表情)を浮かべて、恭二は立ち上がる。瞬間、ほん
の少しだけよろめいたのを七夕は見逃さなかった。
「眠ってねえのか」
「……ずっと座っていたものでな。足が痺れたよ」
 思えばこの兄は、この一月――特にここ数日、行方不明事件の捜査で、まともに休んで
いられる立場ではなかったのだ。勿論彼が処理しなければならない事件はこの件だけでは
なく、毎日のように降り積もっていく。その激務を放り出して、彼は七夕の治癒に二十四
時間あまりを不眠不休で費やしてくれたに違いない。
 確かに、あの傷をたった一日で塞げるような術者は恭二くらいのものだろう。
 だが、それほど強力な治癒術を掛け続けた彼の疲労は、もう限界にきている筈だった。
 妖力も体力も底を突いているに違いない。
「兄貴は嘘が下手すぎるな。――悪い、俺がヘタうったせいで足を引っ張った。けど、治
癒術なら他に使える奴がいるだろう? 何でわざわざ兄貴自ら俺の面倒見に来るんだ」
 七夕の疑問は当然である。恭二が現場を離れれば、その影響は大きい。七夕の治療など
事件の解決には繋がらない些事の筈。もっと階位の低い百鬼に任せるのが戦略的に正しい。
 もしもそうしていたら、七夕は未だ昏睡したままだったろうが。
 あるいは情報源として、自分は期待されているのだろうか……そんな推察をしていると。
 襖を開いたところで、恭二は振り返り、
「――馬鹿者。弟が死に掛けている時に、仕事などやっていられるか」
 照れ臭そうに、そんな獅条にあるまじき台詞を残していった。


 恭二は鍋と食器の乗った盆を持って、部屋へと戻ってきた。布団の横に盆を置いて、茶
碗に雑炊をよそう。おもむろに匙を持ち、恐ろしい発言をしたのである。
「七夕、口を開けろ」
「待て……ちょっと待て。一応念のために聞くが……兄貴、何をするつもりだ?」
 狼狽して問うた七夕である。
「さっき八斗が痛み止めの針を打ったから、まだ手が麻痺しているだろう? だから私が
食べさせてやろうと言っている。ほら、あーんしろ」
 邪神みたいな顔でそんなことを言う。
「その顔と声で、あーんしろ、とか言われてもなぁ……」
「文句を言うな。看病というのは、こういうものだろう。違うか?」
 違わない。決して違わないのだが……凶悪な形相の兄貴にそんなことをしてもらっても、
まったくありがたくないのである。
 思い出したくない記憶の十位以内に輝くこと間違いなしだった。
「だからフーフーとかしなくていいから! 勘弁してくれよ……」
「ふむ、熱いぞ?」
 俺は熱いのが好きなんだよとやけくそ気味に七夕は言った。そうか、と恭二は納得し、
改めて熱い雑炊を匙に乗せて、弟の前に差し出したのである。
 観念して口に入れる七夕。顔が一気に青褪めた。
「ぐぇっ……すげぇ不味い」
「そうか、吐いたら殺す」
 兄の眼は本気だった。
「……しょうがねえな。じゃあ」
「残したら殺す」
 七夕の言葉を遮るように釘を刺してくる恭二。
「美味い美味いと喜んで食え――絶対に残すなよ」
 兄の言動は段々と拷問じみてきた。怪我人になんて酷なことを強要しやがるのか。
「しかし、やはりおまえの口には合わなかったか……八斗は喜んで食べていたのだがな」
「八斗と一緒にするなよ、あいつの舌はおかしいじゃねえか。いや、こういうのはどちら
がおかしいって問題でもないんだろうが……少なくともこんなもん俺には食えねえよ」
「作ってくれたのが深雲陽香さんでもか?」
 台詞の効果は覿面だった。喉に餅が詰まったように、七夕は絶句した。
「ぐ……これを、先輩が?」
「ああ、おまえのために、心を込めて作ったものだ。――おまえはそれを、自分の口に合
わないというそれだけの理由で、不味いとけなし、食わずに捨てるというのだな? なら
ば可愛い弟といえど、生かしておくわけにはいかんが」
「ああ、いや、美味いよ? うん、すげぇ美味い。嬉しいなぁ、なんか怪我の痛みも引い
てきたみてえだ。手の麻痺も治っちまったぜ」
 棒読みで言って、七夕は恭二から匙と茶碗を奪い取り、意を決して雑炊をかっ込んだの
である。
 地獄の責め苦のような数分が過ぎて……七夕は陽香の愛情料理を残さず食べ尽くし、ぐ
ったりと前に倒れこんだ。八斗と同等の味覚を持つ人間がまさか存在するとは……もうあ
の人には二度と御飯を作らないよう、それとなく説得しなければなるまい。


 食休みもそこそこに「なぁ」と、七夕は切り出した。
「何だ?」
「犬神操は――殺さなくちゃ、駄目か」
「どうして、そんなことを言う?」
 兄の声は責める調子ではない、優しい、促すような声だった。
「あいつはいいやつだ。あいつが死ぬと、哀しむやつがいる。確か憑依を剥がす術もあっ
た筈だろう? あいつは確かに人を喰ったかもしれねえが、自分の意思なんかじゃなかっ
た。断じてだ。それでも――助けてやっちゃ駄目なのか」
「その答えは、おまえがよく知っている筈だ」
 七夕は唇を噛んで俯いた。


 獅条は妖怪を殺し、変異を殺し、この狭き隔絶世界を守護する任を負う。
 何故ならそもそもの始まりにして、この狭き隔絶世界が生まれた理由が獅条の始祖――
『鬼』に起因するからである。
 数百年ほど前のことだ。とある東の島国に一匹の鬼が生まれた。『滅び』の気と高い親
和性を持ち、己が力として操ることが出来る能力者。
 現在『高位適応体』と呼ばれている体質を生まれ持った赤子が、戦で発生した滅びの気
に当てられて魔性変異を果たした存在――それが獅条の始祖である。
 (さつき)と名付けられた鬼は、幼い時分、人として育てられたというのだが。
 存在しているだけで滅びの気を排出し、周囲に災いを振り撒くのが鬼の特性である。
 彼女の周囲の人間には当然のごとく災厄が襲い掛かった。鬼子、と忌み嫌われたのも無
理もないことであろう。
 だから『鬼』、あるいは『鬼姫』という呼称は、彼女がそう呼ばれていたというだけの
ことで、本来の鬼族とはもしかしたら種が違うかもしれない。
 彼女がどのような人生を歩み辿ったのか、七夕は知らない。
 ただ、故あって島国を滅ぼしかけた彼女は、己が発生させた膨大なる『滅び』の気とも
どもに、御薙の秘術によって隔絶世界へと封ぜられた。
 これがイワトの起源である。
 妖怪が発生させる妖気、その極めて悪質なものを『滅び』と呼ぶのだが――通常、大勢
の人が死んだ戦跡などでしか発生しないこの『滅び』が、イワトには満ち満ちている。
 故にイワトでは『外』の世界にはない災いが高確率で発生してしまうことになる。
 イワトに蔓延する『滅び』の大半は、始祖が発生させてしまったものだ。
 これを消してやるには、変異妖魔を殺害して少しずつ浄化を進めるしか方法がない。
 ……発生させた根源を断つことで一気に浄化することもできるのだが、不滅の肉体を持
つ鬼を殺すすべなどある筈もない。
 あればそもそも、御薙は封印などという手段は取らなかった。
だから鬼の子孫である獅条には、この世界を護り浄化する責任と義務があるのだ――と、
お堅い連中は口ではそう言う。でも、そんなことは建前だった。そんな大昔のことを理由
に命を張れるほど、誰も酔狂じゃない。
 神殿に封じられて、長い歳月を過ごす鬼の姫。彼女はずっと嘆いている。自分のせいで
生み出されてしまった災厄に満ちた世界が、己の死によって平穏な世界に戻ることを待ち
望んでいる。
 かつて頭を撫でてくれた暖かい掌。憂いを帯びた鬼の瞳。優しく抱き上げられた想い出。
 何もかもを覚えている。きっと、自分だけじゃない。
 ――いうならこれは、親孝行みたいなものだ。
 災いが起こる端から潰してやれば、こんな世界だって少しは穏やかにもなるだろう。
 きっと獅条の掟は、そんな想いから生まれたものなのだ。
 その理に従うことに、何の異存も持っていなかった。今もそうだ。掟に背けば災いしか
生まないと――十分に理解している。
 一度人を喰った妖怪は、必ず同じことを繰り返す。初めの食人が、自分の意思じゃなか
ったとしてもだ。人の血肉を求める本能に、いずれ理性が駆逐されるのみ。
 だから、いいやつだろうと、誰が泣こうと、犬神操は殺さなくてはならない。
 分かっていても、苦々しい現実だった。


  *


「何だそりゃあ!? おかしいぜ、それ!」
 恭二は淡々と、これまでのことを語り始めた。しばらく黙って聞いていたが、九葉たち
が遭遇した学校での出来事を聞いた段階で、七夕は堪えきれなくなった。
「犬神操が学校に登校してて……九葉とやりあって……その上蛛糸結界だと?
 ありえねえよ、おかしいにも程があるぜ」
「ほう、そうか。どこがおかしい?」
「まず、犬神操が憑依型の変異だってところだけは正しい。真昼間から獣化しやがって…
…それで俺はやられたようなもんだからな。だが、憑依してるのは妖蜘蛛なんかじゃねえ。
 ――隻眼王だ」
 それを聞いた恭二は目を鋭く細めた。
「それは、おまえが倒したといっていた、人狼の変異のことだな。――確かか?」
「あぁ、間違いねえ」
「なるほど。確かにそれではおかしいことになるな」
 七夕が言わんとすることを兄はすぐさま察してくれたらしい。
「人狼と犬神の組み合わせでは『憑依型』といえど、蛛糸結界など使えまい。何より、犬
神操が隻眼王に憑依されているのなら、彼女は食人鬼ではありえない」
「な……に?」
 犬神操は、食人鬼ではない。恭二の言葉は七夕の予想を越えていた。
「隻眼王が生まれ、死したのは一昨日の深夜なのだろう。ならば、それ以前の殺人を、変
異した犬神操が行うことは不可能だ。つまり、変異した彼女とは別に、もう一人『食人鬼』
がいるということになる。縺楽によく似た術を使う何者か、だ。九葉が学校で見たという
犬神操の様子からすると――いかんな、彼女は傀儡にされている可能性が高い」
 あの時に感じた違和感が、綺麗に消失するのを感じた。馬鹿だった。こんな簡単なこと
を見落としていた……。あいつは、人なんか喰っちゃいなかった。
「くそ……!」
 七夕は怒りも露わに立ち上がった。そうと分かった以上、ここで寝込んでいるわけには
いかなかった。早くこのことを九葉に伝えて、操を殺すのを止めなくては。
「七夕……立ち上がれるのか?」
 驚愕した兄の声で、七夕は気付いた。――痛みがかなり引いている。
「あ、あれ? 治った、のか?」
「――ははあ。あの娘、余程おまえに治ってもらいたいと強く想いを込めたらしい。こん
なに強力な例は初めて見るが……大したものだ」
「……そうか」
 ありがとよ、先輩。
 一笑し、七夕は急ぎ着替え始めた。寝巻を乱暴に脱ぎ捨てて、いつもの制服に袖を通す。
 こいつが獅条七夕にとっての退魔正装だ。
 惜しむらくは、操戦で消費した呪符を補充する暇がないことか。
「七夕」
 今、正に玄関から走り出そうというところで、恭二に呼び止められた。
「どうした、兄貴? あんたも少し休んだ方がいいぜ?」
「いや…………頑張れよ」
「ああ、行ってくる」
 目を合わせて告げて、七夕は走り出した。


  *


 坂道を走っていく弟を見遣り、獅条恭二は片腕を前に突き出した。
影蛇(かげへび)
 刹那、黒衣の袖口から細長い影が流れ出てきた。『それ』は実体を持たない、影から生
み出された黒い躯と紅い双眸の蛇である。蛇は地に頭が付くほどに垂れ下がると、鎌首を
擡げ恭二の腕に巻きついた。
「我が眼、我が耳を託す――往け」
 腕から弾丸のように射出された影蛇は、誰にも気付かれることなく七夕の頸に巻きつい
て、その姿を消失させた。
「絡繰りは読めた。……試練になるぞ、七夕」
 過保護かな、私も。
 呟いた男の姿は、もうどこにも見えなかった。