陽香は動けない七夕の頬に、そっと手を差し伸べる。頬に妖しく手を添えて、鼻が触れ
合う程に顔を寄せた。
「私ね。新しい身体の中で、この爪だけは嫌い。ほら……こんなにそっと触れたのに、き
みを傷つけてしまうでしょう」
 肌に僅かに触れられただけで、鋭利すぎる爪は頬を切っていた。ぴり、と紙で指を切っ
た時のような痛み。一条の流血に陽香の眼は釘付けになり、掛かる吐息が熱いものに変わ
る。背に白い腕が淫らに回されて、すぐ間近で彼女の牙がきらりと煌いた。
「俺を食うのか、先輩」
「いいえ……きみだけは特別。きみはとても美味しそうですけれど、そんなことしたら、
もう会えなくなってしまいますから」
 だから、我慢しておきますね。
 秘め事のように囁いて。陽香は獲物を貪る蜘蛛のように、腕を絡め七夕を抱き寄せた。
 抱擁は強く情熱的に交わされる。糸傀儡のように腕を繰られ、七夕もまた陽香に抱擁を
返してしまっていた。
「……初めて会った時から、きみのことが好きでした……。ずっとね、こうしたいと思っ
ていたわ」
「なら、そうすればよかった。一年前に」
 陽香は哀しげに首を振る。
「駄目よ。あんながりがりで陰気な女なんて、君の好みじゃないもの」
「俺はそんなこと、一度だって思わなかった。あんたはいつだって……」
 違うの、と陽香は七夕の声を遮った。
「きみの知っている深雲陽香は、いつも笑顔を絶やさない、明るい先輩……でしょう?
 そんな女はどこにもいません。私はずっと、きみに好きになってもらえるように、理想の
私を演じていただけなんだから。本当の私は、もっと陰気で、無口で、誰にも相手にされ
ない人形のような女でした。化粧の下の肌はぼろぼろで、服の下は骨と皮ばかり……きみ
が見たら、きっと幻滅していましたよ」
「…………」
 夏でも冬服を着ている彼女を訝ったことはある。あの笑顔の裏にそんな理由が隠されて
いたなんて、知ろうともしなかった。
「病気が酷くなって、入院してから。きみは何度もお見舞いに来てくれましたよね……。
 会ってあげられなくてごめんなさい。きみには最後まで、綺麗な私を覚えていて欲しか
ったのよ……」
 何度行っても彼女には会えなくて、病室の前で佇んでいることしかできなかった。
 あの日、彼女が両親に漏らした一言を聞くまでは。
 外の海が見たい、と。
「あれは、お母さんを困らせてやりたかっただけなの。
 何か欲しいものはある? なんて言うものだから……そんなの、本当に欲しいものは手
に入らないって分かってる癖に。
 だからちょっとだけ意地悪をしてやろうって、それだけだったんです。
 なのに、いきなり扉の向こうから大声で『見せてやる』って……『だからそんな病気、
さっさと治しちまえ』って……ふふ、吃驚したなぁ、あの時は」
 七夕の胸に顔を埋もれさせて、陽香は愛しむように頬を摺り寄せた。
「両親は今、どうしてる?」
「食べちゃいました」
 聞くまでもないことだった。一番最初に彼女の異常に気付くのは、彼女の両親に違いな
いんだから。
「遼平も、あんたが喰ったのか」
「そうよ」
 陽香は遠くを見るような瞳で頷いた。
「あの日は、再登校の手続きをする日だったの。遼平くんに呼び出されて、屋上で告白さ
れたわ。応えてあげるつもりはなかったのだけれど、嬉しくて、どきどきして……そうし
たらね。どうしても、彼のことを食べてしまいたくなったの」
 抗い難いその衝動は、好意や性欲に食欲が伴う妖蜘蛛特有のものだ。
 縺楽――特に女性は、性交中に相手を捕食してしまうことすらあるという。
 彼女たちにとって『好き』という感情は『食べたい』と同義なのだ。相手を愛する気持
ちが募るほどに、連動して食欲も膨れ上がる。
 人間が変異すると、その心に強く印象付けられていた物語や、妖怪の姿を基にして変異
後の姿や能力が決定付けられる。
 恐らくかつて七夕が聞かせた縺楽の話をベースに、陽香は『変異』したのだろう。
 だとすれば彼女が同様の性質を備えていても不思議はなかった。
 だけど……遼平の想い人が陽香だったなんて。
 あいつはずっと七夕に遠慮していて、それでも諦められなくて。最後には、人の好いあ
いつが親友を裏切ってまで告白したというのに。
 喰われてしまった。皮肉なことに……彼の想いが相手に届いたが故に。


「半分なくなった腕を見て、彼は言ったわ……。
「“貴方に食べられるのなら、それもいい”って」
 食餌の光景を思い返しているのだろう、うっとりと陽香は言った。
「それだけじゃ、ないだろう? 俺には分かる。あいつならもう一言言い残す。必ず。
 俺への伝言をだ。あんたには、それを俺に伝える義務がある」
 陽香は顔を上げて、抑揚のない声で、もういない親友からの伝言を読み上げた。
「“じゃあな七夕、先輩を頼むよ”」
 言うと思った。絶対に言うと思った。捻りのない奴だ、一言一句同じじゃねぇか。
「大馬鹿野郎だぜ、遼平……」
「そうね。今から自分を食べようとしている化物を、最後まで心配して……本当に、救い
ようがないくらい愚かで、馬鹿な人だったわ」
「ああ、まったくそのとおりだ。けどな先輩。
 そう思ってるなら、どうしてあんたは泣いてるんだ?」
 陽香は、遼平を嘲り、罵りながら目に涙を浮かべていた。恐らくは無意識のうちに。


「嘘です。私、泣いてなんか……いません。だって美味しかったのだもの。遼平くんも、
お母さんも、みんなみんな美味しかった。あんな快楽があるなら、他のことなんて何もか
もどうでもよくなるくらいに。だから――哀しい筈なんて、ないのに」
 どんなに好ましい隣人も、食べ終わってしまえばもう、単に前回の食餌と割り切ること
ができるのが妖蜘蛛の感覚だ。
 衝動のままに人を貪り喰らったとしても、それを悔いて涙を流せる彼女は……まだ完全
に妖怪に変異しきっているわけではない。
 普段の彼女から変異妖魔の気配を殆ど感じられなかったのもそのせいだろう。
 九葉が陽香に敵愾心を抱いていたのも、今にしてみれば、操と七夕が嫌悪しあっていた
のと同じことだったと分かる。
 好意を抱いているほどに食欲を喚起してしまうというのなら。
 深雲陽香の同級生が、真っ先に食人鬼の餌食になるのはあたりまえのことだった。
 親しい人を貪り殺すたび、彼女は口唇を血に染めて……一人慟哭していたのだろうか。
 遣り切れぬ想いが、黒い澱のように七夕の胸に沈殿していった。


「……まさか、こんなに早くきみにばれちゃうなんてね。一緒に学校、行きたかったな」
 この人は……犬神操を身代わりに罪を逃れ、八斗や九葉を傀儡にして、そして――その
後はどうするつもりだったのか。獅条はそんなに甘くはない。今一時逃れようと、人を殺
した妖怪は、いずれ必ず滅びることになる。
 この世界にはもう、深雲陽香の居場所はない。
 そんなことは、彼女にだって分かっている筈なのに。


「――最後に一つだけ。深雲先輩、あんた何を願った」
 深雲陽香が、心を闇に飲まれて変異してしまった理由。彼女は一体何を望んだのか。
 七夕はそれを彼女の口から、はっきりと聞かなければならなかった。
「健康な身体が欲しかったんです。まだ、死にたくなかったから」
「違うな。そんな願いじゃ隻眼王には敵わねえ。高位妖魔が変異した隻眼王に、人間から
変異した深雲陽香が勝つためには、圧倒的な実力差を覆しうる強い願望が必要だった筈な
んだ。あんたにはどうしても死ねない理由があった。それは……何だ?」


 単純に計算した場合、変異妖魔の強さは魔性変異によって強化された素体自身の能力に、
願望の強さに比例して獲得する『滅び』の力が合算されたものになる。
 人狼二十頭分の怨念を凌駕し、人狼と人間の戦力差を覆すほどに強い願望――
「そんなの……決まってるじゃ、ないですか」
 陽香は抱擁を解き、七夕の肩に両手を置いて、真っ直ぐに目を合わせた。
 涙の滲む微笑は、人ならぬ美で七夕の心を揺らがせる。


「約束したでしょう――二人で、海を見に行こうって」
「……そっか」
 そんな些細な約束が、人狼の怨念を打ち倒し、少女を人喰い蜘蛛に変異させた。
 そういう、ことだった。


「俺の、せいか」
 相貌を苦悩に染めた七夕に、陽香は首を振って否定を示し、そっと身体を寄り添わせた。
「どうか気に病まないで。
 きみとの約束がなかったら、私は一年前に死んでいたのだから」
「その代わり、人のままで死ねた。両親を、友達を、遼平を、喰い殺すこともなかった」
「その方がよかった?」
 そうだ、とは言えなかった。彼女の病気が完治することを誰よりも心待ちにしていたの
は、他ならぬ七夕だったのだから。
 だけど、こんな形で彼女に戻ってきて欲しかったわけじゃない。


「ねぇ七夕くん。妖怪退治なんてもう辞めて、外の世界で、ずっと二人で暮らしませんか?
 ……私はもうこの世界では、いずれ殺されるのを待つだけの身です。けれど、外に逃げ
れば獅条の人たちも追っては来れないでしょう?」
「そこでまた……人を喰うのか」
 仕方ありません、と陽香は俯いた。
「そうしなければもう、私は生きていけないから。でも、出来るだけ我慢します。人間じ
ゃなくても、ある程度知性がある動物なら――少しは、代わりになるんです」
 犬殺し。
 陽香はそうやって人喰いの罪悪感を残したままで、出来る限り人を食べないように、犬
を喰い殺し続けていたのだろう。
(一つだけ約束しろ。おまえの信念、決して曲げないと)
 操はすでに、この結末を予想していたに違いない。


 ――あの時、あの問いに、獅条七夕は何と答えたのだったか。


 1.陽香を殺す。
 2.殺すことなんて、できない。


「はは。二人で外に、か。悪くないよな……悪くはない。外のことなんてよくしらねえけ
ど、二人なら何とかなるんじゃねえか。なに、外に行きゃあ人間なんて腐るほどいるらし
いし、ちょっとくらい減ったってバレやしねえさ」
「七夕くん……」
 零れそうだった涙が決壊し、陽香の頬を煌きながら伝い落ちる。
「けど、やっぱ駄目だ。俺は、あんたを許すわけにはいかねえ」
「どうして……? 私のこと、きらいですか?」
 懇願する美声は、やはりあの人そのままで。けれどその表情には、妖艶な情欲の影が見
え隠れしていた。
「…………」
 七夕は問いに答えず。
 首を動かして、八斗、九葉、操の姿を一通り確認するや、ゆっくりと眼を閉じた。
「お願いですから断わらないで……
 そうしないと、きっと私、きみを、食べてしまう――」
 上着のボタンを千切って、陽香の手が服の中に進入してきた。滑らかな掌の感触を胸に
感じる。掌は肌の上を厭らしく這い回り、上半身を露にさせた。
 食べ易いように。
 四肢を束縛されている七夕に、抗う術はなく。思考を幾ら巡らせても、自分の力でこの
状況を打開し、食人鬼を討滅せしめる算段は思いつかなかった。
 だから、今倒すべき相手は閉ざされた瞼の向こう側にいる、変わり果ててしまったあの
人ではない。
 逆転の機会が訪れるその瞬間までに……向日葵のように微笑む彼女の想い出を、彼女を
慕っていた昨日までの自分自身を――残らず殺してしまわなければならなかった。
 朝の保健室。彼女は頬を羞恥に染めて、嬉しそうに将来の夢を語った。
 削除。そんな想い出は最初からなかったことにする。
 坂道の停留所。再会したあの人は、陽光のように笑ってくれた。
 否定。彼女はあの時、もうすでに人ではなかった。
「ぐっ……!」
 胸に奔る激痛に薄く双眸を開いて見れば。胸に牙を突き立てて、陶然と瞳を濁らせて、
陽香が七夕の生き血を啜り飲んでいた。
 ――あんな笑顔は偽りだった。
 吐息は熱く濡れて、零れた流血を淫らに舐め取り、少年の胸板に浅ましく貪り付く。
 これが彼女の本性なのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。
 嫌なのに……きみを食べてしまったら、いけないって分かってるのに。
 私――駄目。もう、自分でもどうしようも、ないの」
 ごめんなさいごめんなさいと繰り返しながら、陽香は七夕を喰らっていた。
 今まで食人の衝動を抑えていたものは、いわずもながな陽香の七夕への執着に他ならな
い。その枷が外れかかっている今、彼女を止められるのは想い人である七夕の一言だけだ
った。
 しかし幾ら彼女が望もうとも、そうしなければこのまま喰われてしまうのだとしても―
―『その言葉』を言うわけにはいかなかった。
 閉じた瞼の裏に、陽香との想い出が次々に映し出され、そして消えていく。
 夏祭りの夜には、川辺で花火をした。恭二が買ってきた手持ち花火に、符術で熾した火
を付けて。線香花火の光を、二人で名残惜しく見つめた日のこと。
 入学式。誰も寄り付かない自分に、友達になろうと笑いかけてくれた彼女のこと。
 雪の日に、不恰好な編み物を得意げに手渡してくれた彼女のこと――。
 何もかも、もう思い出せない闇の奥底に棄ててしまおう。
 迷わず確実に、仕留められるように。
 少年の頬を伝う涙は、決して身体の痛みによるものではなかった。
 ……最後に。
 瞼の裏に映し出されたシーンは、七夕自身にもまったく覚えがない光景だった。
 柳の下で尻餅をついた少女と、気まずそうに頬を掻く白髪の少年――
 そうだった。昔、七夕がまだほんの子供だった頃に、たった二言三言のやり取りをした
黒髪の先輩がいたんだ。
 今までずっと忘れていた記憶は言いようのない郷愁とともに蘇り、美しく成長した彼女
の姿と重なって、そして消えていく。涙と一緒に流れ落ちていく。


 そう――きっと最初から、こんな出逢いなどありはしなかった。


 重い、大切なものがごっそりと抜け落ちて、心の中心に虚ろな風穴が開いていた。
 まるで儚い、槐安の夢を見ていたよう。
 想い出は夢幻の彼方に置き去りにして、地獄の現実と向かい合う。打ち倒すために。
 迷いは消えた。後はいつもどおり、自分の役目を果たせばいい。犬神操に誓ったように。
 人を喰った妖怪は誰であれ、速やかに始末する――。
 開いた両眼に慈悲はなく、ただ寂寥だけを湛えている。

「食人鬼。俺はおまえを、殺すことにしたよ」

 そして獅条七夕はいつものように、倒すべき妖魔に死を宣告した。


  *


 彼は……それ以上何も言わなかった。
 陽香を殺すと宣言しても、七夕にはこの状況を覆すことなんて出来ない。
 身体中を蜘蛛の糸で縛られて、もう陽香に生きながらにして喰われてしまう未来しか残
されていないのに。
 それでも彼は最後まで、人喰いの妖怪なんかには屈しない。
 深雲陽香が恋焦がれていた男の子は、いつだってそういう人なんだ。
 だから本当は分かってた。
 自分の本性を知られてしまえば、彼の愛を得ることなんて二度と叶わないと。
 今まで抱いてくれていたかもしれない好意も、残らず消えてしまうに違いないと。
 何を夢見ていたんだろう……死体を隠して、傀儡を作って、欺いて。
 ずっと騙し続けることなんて、できないと分かっていた筈なのに。
 死ぬためだけに退院して……臨終の床についていた陽香が、心の底から死にたくないと
願った時。
 突然湧き上がった強烈な飢餓感のままに、両親を喰い殺したあの時から。何もかもが狂
っていた。かつての自分はどこにもなくて、ただ願望だけが滅びに向かって暴走していた。
 だけど人間を辞めて、人を食べて、浅ましい食人鬼に成り果てても。
 それでも叶えたい願いが、伝えたい想いがあったから。
「……そう、私を殺すのね。七夕くん」
 あれほど激しかった食欲はいつのまにか消えていた。
 陽香は貪っていた肉から顔を上げる。血塗れになった口元を腕で拭うと、こくりと小さ
く喉を鳴らして口腔に残る血肉を嚥下した。甘くて熱い、愛する人の味。
 まるで仲睦まじい恋人のように見詰め合う二人の瞳には、五年の歳月を経て積み上げて
きた親愛も、つい先ほどまで永遠のものとさえ思えた信頼も、どこにも残ってはいない。
 代りに取り留めのない寂寥だけが、涙が枯れ果てた後に残留していた。


 依然黙したままの七夕を眇め見て、陽香は考える。
 もう彼には幾ら懇願しても駄目……獅条七夕は深雲陽香を許さない。
 なら……彼を手に入れるためには、もう一つしか手は残っていない。
 陽香は舌を紅虫のように妖しく蠢かせ、舌なめずりをする。舌と唇の間で淫水のように
糸を引く白い分泌液は、明らかに唾液などではないと知れた。
「……そうだな。こうなれば後は、俺を傀儡にするしか、ないよな」
「『操糸(そうし)』、といいます。きみの身体を内部から侵食して、私の思いのままに動く操り人形
に変えてしまう。覚悟は、いいですか?」
「そんなのはもう、俺じゃない」
 僅かに残された人の心が、七夕の言葉を肯定していた。陽香の皮を被った妖怪は、そん
なことはないと静かに首を横に振る。
「いいえ……例え心を喪おうと、きみは私の大好きな七夕くんです。今までよりも少しだ
け、素直になってしまうだけ。大丈夫、痛くはしないわ。さぁ、力を抜いて……」
 七夕の背に腕を回して抱擁した陽香は、すっと顔を寄せた。
 深い口付けが交わされる。陽香の舌先から流れ出る粘液は白い糸へと姿を変えて、七夕
の体内に根を張っていく……。
 ものの数分もあれば妖糸は全身の神経網を侵し尽くす。練磨された戦闘能力と人格の表
層部分だけを残し、自我のみを喪失した忠実なる使い魔が完成する。
 その出来栄えを夢想し、また舌先の感触に心奪われていた陽香は、次の瞬間に思がけぬ
 反撃を受けた。
「……っ!」
 悲鳴を上げることも叶わない。七夕は糸に縛られておらず、唯一自由になる武器――す
なわち己の歯牙をもって、陽香の舌を噛み千切ったのである。
「人喰いは何も、おまえの専売特許ってわけじゃない。まぁ……美味くは、ないけどな」
 七夕はたった今噛み切った舌を乱暴に吐き出して、不敵に笑った。陽香はまだ見たこと
がなかったが――この愉悦の一笑こそが、獅条七夕の宣戦布告だった。
「――――!」
 舌の再生までには数秒を要する。陽香は慄いて後退し、目を見張る。
 自分が今、何をされたのか。その事実を噛み締めるや、彼女は赫怒した。
 目は口ほどに物を言うとはこのことか、修羅の形相で七夕を睨み付け――
 そして糸が切断された。一体何が起こったのか、七夕の全身を束縛していた黒い妖糸が、
眼にも留まらぬ一瞬のうちに、残らず断ち切られてしまったのだ。
 陽香の双眸が捉えられたのは一つだけ……虚空に未だ刻まれている、閃光めいた爪の軌
跡のみであった。


「上等。たったあれだけのやり取りで、よくも俺の意を酌んでくれたもんだ。しかしまぁ、
てめぇら(、、、、)のド根性には毎回呆れさせられるよ。なぁ?」
 自由になった四肢を運動させながら、七夕がさも面白そうに話しかけたのは――
「生憎と、今ので限界だ。後は自分で何とかしろ……。
 無念だぞ獅条。この女は、オレが喰い殺してやる筈だった。
 そうすればおまえ、私を恨むだけでよかったのにさ」
 やはり封印が弱かったのか、『彼女たち』は混ざり合っている。最後の力で蜘蛛の糸を
斬って捨てた獣人の少女は、今度こそ力尽き地に伏した。


「余計なお世話だ。人の仕事を取るんじゃねえよ」
 七夕は寂しげに一人ごち、腕を素早く振って呪符を構える。
 眼芒に鋭い殺意を乗せて。これは俺がやるべきことだ、そういわんばかりに。
 そんな、と陽香の口が音の出ない言葉を刻む。
 分かる。目の前にいるこの人は、躊躇いなく自分を殺すのだと分かってしまう。
 とても――辛い。心が砕けてしまいそう。
 その感情の正体はきっと、かつて陽香が喰い殺した人々が感じたものと同じ――信じて
いた人に滅ぼされる、胸を引き毟られるような絶望だった。
「ぃ――」
 嫌だ。そんなのは嫌だ。まだ死ぬわけにはいかない。死にたくない。
だってまだ、何一つ望みを叶えていないのに。
「邪魔を――邪魔をしないで……!」
 そして。妖魔と化した少女は己の願望を守るために、迫る敵を殺すことにした。
 どうしようもない矛盾にも、もう気付かない、気付けない。
 校舎に渦巻く滅亡を導く瘴気が、彼女の心を黒々と塗り潰してしまっていたが故に。


 黒髪が揺らめき数多の妖糸を紡ぎ出す。驟雨のように降りかかる蜘蛛の糸はしかし、七
夕を捕らえられない。彼はまず横っ飛びにかわし、追いすがる糸を呪符で『切り』払い、
半分以下の威力に減退した糸束を結界を張ることによって防いだ。
 一連の防御行動をこなした七夕はすぐさま新たな呪符を投じ、蠢く黒糸に『火』を放つ。
たちまち炎は糸を焼き尽くし、陽香は髪に火が燃え移る前に、妖糸を切断するしかなか
った。
 極めて合理的な方法によって陽香の糸を封じた七夕は、感情を動かすこともなく突進し
てくる。まるで妖怪を殺す用途だけを与えられた、機械人形みたいだった。
『切』の呪符が、陽香の頸を切断すべく彼の指先で閃いている。
 これでやっと終わりにできると、心の中で誰かが囁いた。


「認めない……諦めない。終わりになんて、させない――!」
 妖魔の本能は迫る死を前にして、少女の身体をさらに変貌せしめた。
 人狼の怨念が集積して隻眼王を生んだように。陽香の願望は彼女をさらにもう一段階上
の存在へとシフトさせる。未だ隠し続けていた、隻眼王すら凌駕する妖怪の身体へと。


 白皙に隈のような模様が浮かび上がる。瘴気を孕み、黒髪が流れゆらめいている。
 全身が焼けるように熱くなり、物凄い痛みとともに異形の脚が腰の辺りから生えてきた。
 肌と制服を喰い破り、黒光りする四対の節足が鎌首をもたげる。
 廊下が狭苦しく思えるほどに蜘蛛脚は巨大で、およそ陽香の半身ほどもある爪が、もて
あますように床や壁を貫いて刺さっていく。


 完全に人の姿を捨てた陽香を見ても、七夕は逃げなかった。彼の後ろには、守るべき人
たちが倒れているから。何より邪悪な妖魔を前にして、獅条七夕は退いたりしない。
 たとえ勝ち目がないとしても。


 陽香は己の勝利を疑っていなかった。この醜い身体を晒した今、彼女の能力はこの場の
誰をも圧倒している。
 節足の爪は剛く、硬く。金剛石すら貫き通す、八叉の魔槍同然である。
「串刺しになりなさい……!」
 前面の二脚が、廊下の壁を紙のように切り裂きながら七夕に襲い掛かかった。
 前方約七メートルを二方向から薙ぎ払う蜘蛛脚は、速度威力ともに九葉に引けを取らぬ
凄まじさで、たとえかわしたとしても自由自在に軌道を変えて何度でも命を刈りにいく。
 それが、八本。
 哀れ七夕は反応することすらできず、串刺しの刑に処される他に先はなかった。
 なのに――


 二脚の感覚が消失したのは同時だった。彼は超高速で迫る蜘蛛脚が二本ともに『切』の
攻撃範囲に入るや、狙いあやまたず纏めて切り飛ばしたのである。
 獅条七夕にこんな身体能力がある筈はない。だけど今の動きは、明らかに獅条九葉を越
えていた。何故なら七夕が呪符を切り払う瞬間を、陽香は注視していたにも関わらず認識
することができなかったのだから。
 続いてさらに二脚が爆破された。いつの間にか貼り付けられていた『炎』の呪符が、節
足の間接で起爆したのである。
「くぅ……っ!?」
 陽香は苦悶に顔を歪め、呻いた。
 何か尋常でないことが起きている。
 七夕が何らかのあやかしを行使しているのはもう間違いない。彼の妖力が猛烈な勢いで
減少していくのがありありと分かる。それほどまでに強力な――極めて費用(コスト)の高い術式。
 三枚の符で構成されている文字を読み取った時にはすでに……勝敗は決していた。


『時』の符術。


 瞬間、禍々しい脚は陽香の身体からすべて同時に(、、、、、、)切除された。
 まるで――妖魔に変貌した少女の姿を全力で否定するかのように。
 慄然と立ち竦む陽香を、背後から柔らかく抱き寄せる腕がある。
 胸元に回された指先には、彼女に引導を渡すための呪符が挟まれていた。
「あ……」
 もう……本当に、どうしようもない。深雲陽香はこれから、ここで死んでしまうんだ。
 ふっ、と力が抜けた。


「――残念。負けちゃいました。……きみの、勝ちです」
「ああ、惜しかったな。先輩」
 餞のつもりなのか、彼はもう一度、以前と同じように呼んでくれた。
 それはどんなにか、救われる言葉だったろう。
「もう今更遅いけれど……ごめんなさい」
「もっと早く言っておけばよかった。俺、あんたのこと、ずっと好きだった」
 そんな筈はないのに、泣いているような声だった。
「ああ――――なんだ」
 願いは叶えられなかったけれど、想いはとっくに届いていたんだ。
 なら、約束なんてもういいや。未練はたくさんあるけれど、自分はもう、あまりにも汚
れてしまった。だから、持っていくのは今の言葉だけでいい。それだけで十分に――
 煉獄の炎が穢れた身体を灼いていく。どうしてだろう……熱くはない。
 これが浄火の炎だからかもしれない。あんなに苦しかった胸の痛みも今はなく、心の中
に張っていた黒い大きな蜘蛛の巣が、残らず焼き尽くされてしまったみたいだった。


 最後に一度だけ。人間だった頃と同じく、陽光のように微笑んで。
「さよなら。きみに会ったあの瞬間から、ずっと私は幸せでした」
 妖魔と化した罪深い少女は、その意識を永遠に手放した。