終章 夏の陽光、黄昏の海



 事件終結から一昼夜が過ぎ。
 獅条七夕はその日、屋敷の玄関にて意外な来客を応対することになった。
「そういうわけだから、これからよろしく頼む」
「何がそういうわけなんだよ。ちゃんと説明しろ」
 察しの悪いやつだと犬神操は偉そうに腕を束ね、流し目で尻尾を振った。
 七夕はまだ、ようやく起き上がれるようになったばかりというところなのだが。
 元々操に大きな怪我はなかったので、霊楔さえ抜いてしまえば元気そのものである。


 ずっと彼女に感じていた不快感は、もうまったく感じなくなっていた。
 御薙秘伝の滅び落とし、その効果のほどは覿面であったようだ。
 この――朝の微風のように爽涼とした雰囲気こそが、本来の彼女なのだろう。
 何をしに来たのか知らないが、犬神操との再会は七夕にとって嬉しいものではあった。
 彼女にとってもそうであることが、視覚効果によってよく分かるので、なおさらである。


「誰かさんに屋敷を燃やされたせいで、オレたち犬神一族は路頭に迷っている。
 当然、こういうときの常識として御薙に御意見伺いに行ったのさ。すると彩音(あやね)さまは、
こうおっしゃった。それなら獅条に責任を持って住家を用意してもらうように、とな」


 御薙彩音。『外』に出向中の母に代わり、若くして御薙を取り仕切る最高位の巫女。
 妖怪擁護派の頂点に君臨する、いってみれば獅条当主の対極である。
 あの姉さんも、また面倒なことを言ってくれる。いや、自分が原因なわけなのだが。


「獅条と軋轢のあるオレたちだ。そりゃあ抵抗がないでもなかったが、他でもない彩音さ
まの御言葉だからな。仕方のないことだった。新しい屋敷が建つまでの間、どこかに間借
りすることになると思う。つまり、オレは使者ってわけだ」
 なるほど筋の通った話だ。納得した。しかしまだ疑問は残っている。
「それなら客用の屋敷を掃除して、そこを使ってもらうことになるだろうよ。おまえによ
ろしくなんて挨拶をされる謂れはないと思うんだが」
「いや、それが。オレだけは必ずこの家に厄介になるように言われたんだ」
 何か妙なことを聞いたと思った。
「何だって?」
 耳を疑って問い返したものだ。
「だからオレは今日からここに泊まると言った。詳しいことはこれに書いてあるそうだか
ら開けてみたらいい。オレもまだ読んでないから、何が書いてあるのかは知らん」
 操が差し出したのは、漆塗りの豪奢な箱である。
 箱には御薙の家紋が金字で彫られている。仰々しい代物を受け取って、開いてみた。
 果たして中には二通の封書が収められていたのである。
 うち一通には『獅条当主様、親展』と記されていた。
 つまり七夕には開ける権限がないということだ。気を取り直してもう一通を見ると、そ
れは実に奇妙な封書であった。
 白い掌大の書袋は可愛らしいハートシールで封をされていて、
『犬神操の滅び落としについて――御薙(みなぎ)真琴(まこと)』と、記されていたのである。
 この時点で嫌な予感が膨れ上がった。よりにもよって施術したのが、あの粗忽娘だとは。
 そういえば、操は未だに眼帯を着けているし口調も何か不自然だ。
 元より男みたいな語り口ではあったのだが、さらに男っぽくなっているような。
 加速度的に陰鬱になっていく心を抑え、七夕は乱暴に封を破り書面を改めた。
 その一行目には、


『隻眼王ちょっと残っちゃった。てへ☆』


「てめえはアホかっ!?」
 つい、手紙に突っ込みを入れてしまった。
「お、おい破るんじゃない! 何て書いてあったんだ!?」
 操は憤る七夕を力ずくで静止した。仮にも自分のことである、心配そうな顔色だった。
「……すまん、ちょっと取り乱した。大丈夫だ、落ち着いて読むぜ。なになに……」
 要約すると、つまりこういうことらしい。
 犬神操と隻眼王の魂魄は一部癒着してしまっているので、どうしても完全に剥離させる
ことが出来なかった。やはり『滅び』と強く親和する操の特異体質のせいらしい。
 取り除けない部分は左目に封じておいたので、眼帯を外さないように。出てくるから。
 多少人格や記憶に影響が出るかもしれないけども、あまり気にするな。人生そういうこ
ともあるさ、強く生きろ。
 封印さえ解かなければ日常生活にはきっと、多分、恐らく問題はないかもしれない。
 ちなみにこの件は決して自分の実力不足ではなく、言ってみれば手の施しようがない類
のものであって、我が術は寧ろ見事なものだったので褒め称えなさい。
 あと八斗くんによろしく。あいらぶゆー☆
 というような事柄が、延々と言い訳がましく綴られていた。
 途中で破り捨てなかった忍耐力を褒めてもらいたい。


「……まぁ、何だ。とりあえずおまえが家に住まわなきゃならん理由はよく分かった」
 御薙の巫女さんたちに幻想を抱いているだろう操に、こんな代物を見せるわけにはいか
ない。細かく千切って燃してくれる。
「おい、まだオレが見てないのに」
 操が文句を言ってくるが、問題はない。
 こんな阿呆の落書きが、正規の文書である筈がないんだから。
 もう一通の手紙には恐らく同様の内容に加えて、今回の事件における御薙の意見などが
きちんとした文体で綴られているのだろうと思われる。
 御薙と獅条の意見調整はまた後日会議なりがあるのだろうが、その前段階として意見書
を送ってきたのだろう。
「……ようは、おまえの中にゃまだ少しばかり隻眼王が残ってるんだとよ。
 処遇が決まるまでは獅条の傍にいろってことだろうな。あんま気にすることはねえよ。
 半分は御薙の力不足なんだし、おまえは元々何も悪くない。人も殺してない。
 だから、大丈夫だ。……まぁ、一度おまえを殺しかけた俺にそんなことを言う資格なん
ざないんだが……」
「いや、あれはお互い様だろう。……ありがとう、この家でもおまえがいるなら心強いよ」
 そう言って、操は牙を八重歯みたいに見せて微笑んだ。
 家同士の軋轢や先入観が抜けてしまうと、操はこんなに素直な奴なのだ。
「……おう」
 こう真っ直ぐな言葉を向けられると、照れる。
「実は、さ。オレ、隻眼王の記憶が残ってるんだ」
「何だと?」
「おまえへの恨みとか、破壊衝動とか、そういうのはもう感じないよ。ただ、一匹の人狼
が生まれて、成長して、異世界に飛ばされて。そして生まれ変わって……おまえに殺され
た記憶がきちんとあるんだ。犬神操の記憶と同じように。
 それならさ――なぁ、獅条。今のオレは誰なんだろうな?」
 似合わない憂い顔で、操はそんなことを言った。
「そんなもん、決まってるだろ」
 七夕は即答する。そう、そんなものは――
「おまえはおまえだ。他の誰でもねぇよ」
 操は七夕の言葉をしばらく吟味して、そして破顔した。
「違いない。馬鹿なことを聞いたな」
 そしてこの日から。犬神操と彼女付きの守人である犬神玉緒が、獅条の屋敷に滞在する
ことと相成ったのである。


  *


 夜――あの人の夢を見た。
 夜も明けきらぬ黎明に、七夕は耳障りな電子音と、喧しい叫び声によって強制的に覚醒
させられた。
 涙で濡れた頬が突っ張っている。女々しいことかもしれないが、これは想い出が確かに
胸に残っているという証でもあった。
「はぁ……」
 もう身体は復調しているというのに、どうしても気力が湧いてこない。学校は九葉のせ
いで休学になってしまったので、担当区域の巡回という日課すらなくなっている。
 別件で仕事が入っているわけでもない。
 七夕は暇を持て余しながら、何もやるべきことがなく、さらにやる気も出ないという極
めて不健康な状況にあった。
 そして襖が抜けて繋がってしまった元隣室では、
「うがー、死ぬ! 死ぬ!」
 不健康さでは他の追随を許さない六海が、昨夜七夕が最後に目撃した時と同じ体勢で、
テレビに齧りついてゲームに熱中していた。
「姉貴、てめぇ何度もうるせーっつってんだろ! 襖までぶっ壊しやがって、音筒抜けじ
ゃねぇか。つうか寧ろ姉貴の声がうるさいんだけど!」
「うるっさいなー。いいじゃんか、部屋の広さ倍になったってことで。それに、美貌のお
姉さまと寝所をともにするなんて、あんた自分が恵まれすぎだと思わないわけ?」
「寝言いってんじゃねえ。あとズボン穿け」
「いやん、えっち。どこ見てんのよ」
 両頬に掌を当てて、かまとと振る六海。
 そんな姉を見て、七夕は三白眼を冷たく眇めた。
「俺はここ数ヶ月、六海姉がズボンを穿いてるところなんざ見たことがねえよ……」
 乙女の恥らいを偽装するには幾らなんでも手遅れに過ぎるというものである。
「だって暑いんだもん。たく可愛くないなぁ。ちょっとはときめけよぉ……いいけどさ。
 ほら、そんなことより画面見てみ。なんとノーセーブでラストまで行ったのよ。
 私ってば、凄くね?」
「ああ、凄え凄え。凄ぇ馬鹿な」


 しばし漫画本の投擲合戦に興じていた姉弟の部屋に、障子を開いて新たな闖入者がやっ
てきた。犬神操である。
「七夕、起きてるか」
「おう、おまえ朝早いな」と漫画を投げながら答える。
 しばらく獅条家で暮らす操には、紛らわしいので名前で呼んでもらうようにしたのだが。
 そのやりとりで、やはり陽香のことを思い出して欝になったりした。
 ダセえとは思うものの、こればかりは自分でもどうしようもない。
「散歩に行こう」と率直に操は要求を告げた。
「――いいぜ、行くか」
 もう目は覚めてしまったし、特に予定もない。断る理由は何もなかった。この部屋でこ
のまま姉貴と小競り合いを続けているよりはましだろう。
「おぅ、七夕」
「あん?」
 出掛けようとしたところで、六海から声がかかる。面倒くさそうに振り返る七夕。
「いつまでも湿気た面してんじゃねー、元気出せ」
「……ああ、お蔭様でちったあ気が紛れたよ」
「そりゃよかった。寂しい時は、いつでもお姉ちゃんの胸に飛び込んで来るがいい」
 だらしなくしゃがみ込んだまま、両腕を広げて薄い胸を張る六海。
「チッ、言ってろよ阿呆」
 照れた顔を逸らし、捻くれた台詞を投げて部屋を出た。
 玄関を抜けて門まで来たところで、またしてもうるさい奴に出くわしたのである。
「こんなに朝早くから、二人でどちらに行かれるのでしょうか」
 竹箒で門前を掃いていた玉緒は、慇懃かつ強制力のある声で問い質してきた。
「ん、散歩」
「散歩……!」
 操はすげなく答えたものの、何故か衝撃を受ける玉緒。
 カランと箒を取り落としてしまう。
「いけません。殿方と二人きりで散歩など、お嬢にはまだ早すぎます」
「……何言ってんだこの人?」
 散歩というのが何かの隠喩なのだろうか。犬神の文化は分からないので、小声で操に聞
いてみた。
「気にするな、大したことじゃない。それより玉緒をどうにかできるか?」
「どうにか?」
「ついて来ないように。この調子じゃ、オレが何を言っても無駄だ」
 それなら三人で行けばいいだろうにと思った七夕であるが、その旨を伝えたところ操は
大変機嫌を悪くした様子だったので、どうやら拙いらしかった。
 玉緒は仕方ありません私も御供いたしますと鼻息を荒くして言った。姉さん何を気合入
れているのか知らないが、操がついて来て欲しくないというならその通りにしてやろう。
「玉緒さん」
「はい、何でしょうか」
「これを見ろ」
「そ、それはっ!?」
 七夕が差し出したのは『玉』の呪符で作った、緑色のゴムボールである。彼女の眼がそ
れに釘付けになったところで振りかぶって、思い切り遠投してやった。
 果たして玉緒はボールを追いかけて、物凄い速さで走り去っていったのだった……
「こら、おまえまで追いかけてったら意味ねえだろうが」
 操の襟を引っ掴んで、七夕は言う。
「なんて恐ろしいことを考え付く奴だ……」
 正気に立ち返るや慄くように振り返った操に、七夕は何をかいわんやと言う風情で肩を
すくめる他はなかった。


 そうして二十分後。
 操が言った『散歩』という言葉は、額面通りの意味ではなかった。とりあえず、あれか
ら一切歩いた記憶がないので少なくとも『散歩』ではありえない。強いて言うなれば『散
走』であろう。放っておくと一人でどんどん先に走って行ってしまう犬が一匹。
 普通の人間と比べれば十分過ぎるほどの身体能力を持つ七夕も、さすがに犬神の体力、
脚力に追い縋れる筈もなく、前を走る操に大声で静止をかけることこれで通算五度目。
 次回があるのなら、首輪と紐が必要だと切実に思った。
 それはそれであらぬ誤解を受けそうではある。
「これは散歩じゃねえ。断じて散歩じゃねえ……」
 肩で息をする七夕に、随分前を走っていた操が戻ってきて不満げに声をかける。
「情けない奴だ。もうへばったのか? あと少しだから頑張れ」
「何だ、目的地があったのかよ」
 操は答えてくれなかったものの、走る速度を緩めてくれた。
 七夕たちが走っているのは、深い木々に覆われた山道である。西に向かって走ってきた
から、もしかするとこの周辺は犬神の土地なのかもしれなかった。
 こんな山奥に七夕を連れ込んで、この女はどうするつもりなのか。
 そんなことを考えていると、ほどなく視界が開けた。山頂である。
「――ほう」
 陽光が燦々と降り注ぐ、世にも美しい場所。見下ろす景観は、人里が一望できる絶景で
あった。
 小さな泉には清水が湧き、小川へと流れている。すくって飲んでみると、清らかな味わ
いが汗を掻いた身体の五臓六腑に染み渡るようだった。
「ふん。どうだ、中々のものだろう?」
 得意げに胸を張る操はまったく息を乱していない。とかく走ることにかけて、彼女たち
の右に出るものなどいないのである。
「ここはどういう場所なんだ?」
「オレの場所だ」
 操はごく端的に言った。
 犬神に限らず獣人たちは、必ずこうして自分だけの場所を持っているのだという。
 それは、何のためだったか。昔教えられた筈なのに、中々思い出せない。
「普段なら誰も踏み入らせないんだが、な。
 オレは気分が落ち込んだ時、いつもここに来る。落ち着くし……それに、見ろ。
 この世界は狭い――が、自分の悩みよりはずっと大きいだろう。そう思うと悩んでいる
のが馬鹿らしくなってくるのさ」
「――――」
 その通りだった。喪失感は大きくて、こんなにも心を空虚にさせているけれど。そんな
悩みなんて世界の大きさに比べたら些細なもの。
 意味のない比較だろう。たった今得た悟りだって所詮一時の魔境、錯覚にすぎない。
 それでも確かに一時、この身に安らぎを与えてくれるものなのだ。
「気に入らなかったか……?」
 心配そうに覗き込んでくる。最近のこいつはどうもおかしい。何だか妙に……その先を
打ち消して、礼を言うことにした。
「いいや、気に入ったぜ。思い切り走って、汗掻いて、止めとばかりにこの風景だ。
 そりゃあ、すっきりしない方がおかしいってもんだ。ありがとうよ」
「そうか、すっきりしたか。ならいつでも使え。おまえならいいよ」
「……おまえ最近親切すぎないか? ここだって、特別な場所なんだろう?
 どうして俺に?」
 操は一拍置いて、
「おまえはオレの恩人だからだ」
 自分でも噛み締めるように、そう言った。
「おまえがあの時来てくれなかったら、オレは今、ここにはいなかった。あの時は遅いと
罵倒したけど……本当は、涙がでそうなくらい嬉しかった。
 犬神は――犬神操は受けた恩を絶対に忘れない。おまえがピンチの時は、オレがきっと
助けてやる。必ずだ」
 馬鹿だ、こいつは。だからそう言ってやった。
「馬鹿、その前に俺は勘違いでおまえを殺そうとしてるだろうが。おまえを助けたのだっ
て、そうすることが俺にとって当たり前だったからだ。感謝されるようなことでも、恩に
感じてもらうことでもねえ。くだらない引け目感じてんじゃねえよ」
 引け目なんかじゃない。怒ったように強い調子で操は言う。
「過程なんかどうでもいい。おまえはオレを助けてくれた、それが大事なんだ。
 ふん、別におまえにどう思われようと構わない。これはオレの宣言だから。けど覚悟し
ろよ。おまえが嫌がろうと何だろうと――離れてなんかやらないからな」
 それだけ言うと、操は不貞腐れたように草叢に寝転がってしまった。
 思い出した。獣人たちはこうやって自分だけの場所に想い人を招き、愛を告げるのだそ
うだ。勿論それと今の状況とは何の関係がある筈もないが、彼女の誠意はしっかり伝わっ
てきた。
 彼女に倣い、身体を投げ出す。
 緑の匂い。背には柔らかい草の感触。視界は広々とした蒼穹で満たされる。
 眩しい陽光は、あの人の笑顔にも似て――
 新しい想い出は、古びたアルバムの頁に挟まれて、大切にしまわれていった。


 夏の陽光の中、二人で昼寝をした日のこと。


  *


 それから幾日かが経った。
 操も随分この家に慣れてきて、段々図々しくなってきた。本来こいつは生粋のお嬢様で
あって、寧ろ遠慮していた部分が抜け落ちただけなのかもしれない。
 ただ相変わらず八斗と九葉――特に八斗に対しては相当警戒している様子である。霊楔
を抜くのも、八斗にやってもらうのは嫌だとそれはもうごねたものだ。
 今でも廊下で八斗と擦れ違うたびに七夕の後ろに身を隠すのである。
 犬神の誇りとやらはどこへいったのか。
 ともかく八斗の獣に嫌われる体質は、獣人にもしっかり作用しているようだった。
 不憫な奴である。あいつとしては、操のことを気に入っているようなそぶりだったのに。


 七夕は現在部屋に居座っている操を眺める。こいつはお嬢様の癖に、礼儀作法とか行儀
とか、そういうものとは対極に位置しているような気がしてならない。
 使い分けているのか、完全に素なのか、そこまでは分からないのだが。
 そんな操は、うつ伏せに寝転んで片足を折り曲げた体勢。
 菓子を頬張りつつ、尻尾振り振り『外』の雑誌を読みふける姿は、汚い部屋に違和感な
く溶け込んでいて、庶民丸出しの有様である。
「ねぇ操、さっきから何食ってんの? 私にもちょうだいよ」
 言いながら菓子に手を伸ばす六海。意地汚い姉貴である。
「これは我が家に伝わる神聖な食べ物だ。『外』から僅かだけ取り寄せることができる貴
重なものだから、味わって食べるといい」
 そんな話は耳の左から右へ。すでにプラスチック皿から茶色い金平糖めいた菓子を引っ
掴んで貪っていた六海は、菓子が入っていた箱を見るや盛大にむせた。
「ドッグフードじゃねえかよ!? 喰えるかっ!」
「ああっ! もったいない!」
 食文化の壁は厚いらしいと思いながら、七夕は先ほどから気になっていたことを聞いて
みた。
「何を見てそんな喜んでるんだ、おまえ?」
「あっ、馬鹿見るな!」
 神聖な食べ物を粗末にされて吃驚している隙を突いて奪い取ってみると、それはどうや
らぬいぐるみの目録らしかった。子犬を模ったぬいぐるみがページ一杯に並んでいる。
 なるほどこれなら操が喜ぶのも無理はない。
 寧ろ六海の持ち物にそんな可愛らしいモノがあったことの方が驚きである。
「それ、クレーンキャッチャーの景品じゃん」
 六海の解説によると、どうもそれは金を払ってゲームをして、その結果に応じて獲得す
ることが出来るという代物らしい。
 そういえばあのチワワを持って帰ってきたとき、恭二は相当苦労したというようなこと
を漏らしてはいなかったか。あの兄ですら苦戦するほどの試練――それは一体いかなるも
のなのだろうか……戦慄を禁じ得ない。
「『外』、か。一度行ってみたいものだ」
 操は子犬の群れを眺めつつ、うっそりと呟いた。
「即物的な女だな」
「か、勘違いするな!? あくまで見識を広めるためにだなぁ……七夕、どうした?」
「何でもねぇよ」


 一つ。大切な約束を思い出した。


「なぁ、今日は何曜日だっけな?」
「土曜日だ。そんなことよりも散歩に行こう散歩に、ずっと部屋にいたら六海になるぞ」
 非常に的確な比喩だった。確かにそれは困る。
「散歩って、おまえそればっかな。いいけど、今日は俺に場所を決めさせてもらうぜ」
「それは構わないが。どこに?」
 立ち上がって、意味深に答える。
「さあてな。付いて来ればわかるさ」